底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

第三人称は人間の本質的あり方な気がする

ちょうどいい気温

雲はあるが、青空がチラついている。風もなく穏やかな天気である。少し涼しいくらいで半袖で散歩するのにもってこいの気温だ。今日は仕事はお休みなので喫茶店に向かうことにする。

 

 

自制心がゴミ

私は仕事以外の日も基本どこかに外出している。なぜなら外が好きだからである。自分の家は落ち着きすぎる。自制心皆無の私が一人でずっと家にいれば堕落を繰り返し、3日ほどで廃人になる。YouTubeの関連動画をひたすら貪り、食っちゃ寝ときどきトイレという生活を送り続けるはめになる。他人の目がないというのは私にとって恐ろしいことである。

 

 

他人が好き

他人という存在が好きだ。他人というのは特定の誰かではなく、まさに他人そのものが好きである。私のことをヒト科の動物であることしか知らない他人と同じ空間にいるのは私的にとても心地よい。私に興味を示すことがないのに、確実にそこにいる。私はここに人間の本質的なあり方を見る。第二人称の人との関わりというのは

shikouzakki.hatenablog.com

でも書いたが、私的には縁でしかありえないと考えている。だから「関わりたいから関わっている」と「たまたま関わっている」は区別のしようがない。でも第三人称はそもそも人の中身までは辿りつかない。つまりはどんな人かということは関係ないので、どこに産まれても必ず「同じ」第三人称の人々と「出会う」。第三人称と生活を共にすることは人間にとって必然である。第二人称の人が人生にいなくても(幼少期は別)人は生きていけるが、第三人称の人は絶対に人生にいなくてはならない。

 

 

第三人称の会話

「おでかけですか?」

「えぇ、ちょっとその辺まで」

という今ではあまりされなくなったコミュニケーションの仕方を私はとても好む。何も話したことにはならない、全く中身がない会話であるのに、そこにはきちんと意味がある。私はこれを「第三人称の会話」と呼んでいる。飲食店のお会計で店員さんに言う「ごちそうさまでした」や、同じエレベーターに乗り合わせた人に尋ねる「何階ですか?」などもこれに含まれる。言わなくたって聞かなくたってどうということは無い。だからこそそこには温かみがある。なんの為でもなく誰にでもそれをするという、無目的無差別的態度は神にも似た愛を感じることができる。

 

 

第三人称は神に似ている

神はいつもただそこにいる。何もしない代わりに、何もしないということをしてくれる。第三人称の彼らとて同じである。彼らはただ彼らの暮らしをしているだけで、私を特定の人として認識することは決してない。私はだだそこに他人のひとりとして存在しているだけでよいということが、たまらなく心地いい。それを求めて私はいつも外出するのだ。

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