底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

私は特別なようで特別じゃない、というかそもそも存在しない

私は特別じゃない

「自分の自分」-「他人の自分」=?

という式を立てた時、そこに何が残るだろうか?何も残らない。でもそしたらなんで私は私であるのだろう?私が生まれる前にも世界はあり、人類は存在する。私が死んだ後にも世界はあり続け、人類も存在し続けるだろう。私はただ他の人と同じように生まれただけで、他の人と同じように生きているだけで、他の人と同じように死んでいくだけの人類のひとりであるのは一面の真実だろう。

 

 

でもやっぱり特別じゃね?

頭ではこれを理解できる。しかし現実的にはやはり決定的に違う面もある。他人が生まれるということは、そのまま他人が生まれるという意味しかないけれど、私が生まれるということは世界がそこから始まる(!)ことを意味するのだ。同じように他人が死ぬということはそのまま他人が死ぬという意味しかないけれど、私が死ぬということは世界がそこで終わる(!)ことを意味するのだ。

 

 

あぁ結局特別じゃないのか

だがこの事実さえ「他人にとってもそれは同じことだ、その人が生まれたり死ぬということはその人自身にとって世界が始まったり終わることを意味する」と言うことが出来る。他でもない私の特別性は常に「誰にとっても」に吸収され、なかったことになってしまう。

 

 

裸の私は認知されない

私は「私が生まれたんだ!」という特別な事実を誰かにわかって欲しいと思いながら生きている。それが他人にとっては特別なことではないと知りながら。いや、特別なことではないだけではなく、他人には私が生まれたということさえそもそも認知できない。私は人知れず生まれ、人知れず死んでいくだけである。他人に認知できるのは常に「この人である私」であって、裸の私そのものは世界で私しか感じえない(本当に感じられる?)。

 

 

寂しさを埋めるためのブログなのかもしれない。知らんけど。

私はこのどこまでも「この人でない私」が残り続ける孤独を知っている。人知れず存在する孤独を。この孤独が癒えることは決してない。だが救われる時はある。他者が「この人でない私」を見つめようとしてくれる時、或いは他者が他者自身の「私」を見つめている時である。平たく言えば、前者の存在が恋人で後者の存在が同志である。ブログを書くことで私は後者との出会いを期待している。同じく癒されぬ孤独を持つ同志の存在を待ち望んでいる。同じくと書いたが、もちろん同じ孤独を持つことはありえない、それこそが孤独を抱える理由なのだから。どこまでも残り続けるその差異さえ理解する同志に出会えた時、私は死んでもいいとすら思うかもしれない。それ以上の幸福などこの世にはない気がするからである。知らんけど。(なんか黒歴史になりそうな文章だな…)

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