底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

「他人にどう思われてもいい」とか無理

ありのままの♪❄⛄

考えるは考えるにしても、今日もやはり書き続けることにする。昨日の今日で少しだけ道が見えてきた。もっと地に足がついた、ありのままを書けばいいのではないか?今までブログを意識するあまり、何か凄いことを書かなきゃと考えるようになっていたが、昨日のように悩みや現状を素直にそのまま書くのも別にありなんじゃないかと思うようになった。

 

 

私は承認欲求お化け

私はたいそうな人間じゃない。わかっているつもりなのだ。いやわかっているからこそ他人にすごいと思われたいと思ってしまう。私は承認欲求お化けなのである。どうしたら他人によく思われなくてもいいと思えるのかがわからないのである。私の「他人によく思われなくてもいい」は常に強がりとして、或いは「私のよさが分からない馬鹿」というレッテルを他人に貼ることでしか成立していない。

 

 

以下は自己正当化の為の言い訳

「他人にどう思われてもいい」は本当に成立可能な事態なのだろうか。私はもうそこを疑い始めている。他人に興味がなく、そもそも他人の思いを感知していない人はいるだろう。そういう人は「他人にどう思われてもいい」と思っているのではない。この場合の「他人にどう思われてもいい」は結果的であって、彼らには「他人にどう思われてもいい」という意識はない。意識の中に他人がいないので、事態は「他人にどう思われてもいい」ではなく「他人の思いというものがそもそも自分の中にない」なのであろう。

 

 

これも言い訳

意識の中に他人の思いがあるのに、それがどうでもいいという事態は想像するのに困難である。だって人間とはいかなる物事にも「できればいい方がいい」という思いを抱く生き物であろう。良くても悪くてもどちらでもいいの「いい」は常に「諦め」でしかない。仕方ないからどうにもできないから「どうでもいい」のであって、どうにかできるのならいい方がいいに決まっている。どうにか出来るのに悪い方がいいということは「いい」の定義からしてありえない。だから「他人にどう思われてもいい」というのはそもそも意識にないから結果的にどうでもいいのか、どうにも出来ないから諦めるという意味のどうでもいい、の二種類しかない。私は後者の諦めきれないバージョンなのである。

 

 

更なる言い訳

論理的には分かる。他人の思いというのは他人に属する行為であって私がどうにかしようとしてどうにかできることはない。それに現実ではどうにかしようとすればする程嫌われていく現象もしばしば見られる。頭ではわかっているのだが、心はついていかないのである。

 

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