底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

逆説の魅惑に負けつづけている

逆説は魅惑的だ

無知の知とはよく言ったものである。哲学はどうしていつもこう逆説的なのだろうか。捻くれ者の私はその逆説を都合よく解釈してしまう。これは非常によくないことである。端的に知識が多い人がすごいという世の中であればそれでよかったのに、その人たちは「実は」大事なことを知らないなんてことを言い出すの本当やめてくれ。おかげで、馬鹿な私はその「実は」を知ろうとしてるから、彼らより私の方が優れているなんていう安直な結論に居座ってしまうはめになる。

 

 

告られてもいないのに振ろうとする行為

無知を知っているということはそれだけ無知なのであってそれ以外ではありえない。そして最も重要なことは、世の中の哲学を必要としていない普通の人々を、無知を知っているかどうかで測るべきではないということである。音楽に興味ない人を「音階も知らないの?馬鹿なの?」と煽ることや、野球に興味ない人を「送りバントも知らないの?馬鹿なの?」と迫ることは端的に場違いであろう。相手はこちらに微塵も興味がないのに、勝手にこちらの土俵にあげて相手を敗者とする構図の気持ち悪さに気づかなければならない。告白もされていないのに相手のことを振ろうとしている勘違い野郎そのものである。

 

 

無知を知ることなどできはしない

そもそも無知を知るとは一体どういうことなのだろうか?どんなに立派な哲学者であろうと彼らにも日常生活というものがあるはずだ。彼らも普通の人のように買い物や他人との会話、労働や睡眠といった行為をしている限り、自分や存在や善悪や時間やその他諸々の概念や実態を理解しているはずだ。そうでなければ、一日たりとも社会では生きていけないだろう。だから彼らとて本当の意味で無知を知っているのではないだろう。彼らは社会や世界や自分が「なぜか」今あるようにある、ということを知っているだけで、やっぱり普通の人と同じように全部知っているのである。「なぜか」と問えるということを知っているだけで、自身が無知である自覚ができているわけではない。何かを知らないと言える為にも既にその何かを熟知していなければならない、という構造からはいかなる者も逃れることはできない。無知の知を掲げたソクラテスだって、そんなことは知っていたはずだ。その上でとぼけていただけであろう。知らんけど。

 

 

知らないと知らないふりは大違い

哲学を人生の逃げに使うのは本当によろしくない。人生からは逃げられないと教えてくれるものこそが哲学なのだから。私は何も優れてなどいない。知らないのではなく、ただの知らないふりをしているだけなのだから。ちっとも無知の知なんかじゃない。

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