底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人類を信頼しているから受動的に生きる

楽な生き方を選ぶ

受動的に生きるのが好きだ。なぜならその方が楽だからである。選択というはとても疲労を生む。選択肢を熟考し、その中から慎重に一つを選ぶことは頭を使うだけでなく体力も消耗する。そのうえ考えたらからといって必ず正解にたどり着けるという訳でもない。だから私は常に「何も選ばない」という選択肢をとる。

 

 

願望=運

自分の健康も生き方もその全てを私は運に任せている。運に任せるということは、つまりその時の自分の願望に任せるということを意味する。あえて先を考えることはしないし、あえて過去を振り返ることもしない。その時の自分が食べたいもの、したいことを忠実に叶える。ただ流れに身を任せる。そうすれば何かに後悔するということは滅多になくなる。いや後悔したとしても納得できる。だってあの時の自分がそれを望んだのだから。それ以上に後悔を打ち消せる言葉を私は知らない。そして責任についても後悔と同様の理由によって苦痛に思うことがなくなる。後悔や責任の苦痛は往々にして、したくないことをしたのに思うような結果を得られなかった時に生じるものである。

 

 

刹那主義とは違う

でもだからといって、私は別に「今」を本気で生きたい刹那主義であるわけではない。身体や精神が未来を予測したり、過去を省みることを望むなら、私は素直にそれに従う。とにかく私は楽がしたいので、人生に「しなければならない」を持ちたくないのである。「しなければならない」とは当たり前だが「したくない」ことであるのが前提である。「したいこと」は「しなければならない」以前に「したいこと」なのだから「しなければならない」と思うはずがない。私はただその時の自分の「したいこと」をしたいだけで、したいことの中身はなんでもいいのである。

 

 

私は人類の一人である私を信頼する

それに私は何百何千年の歴史が刻み込まれたこの身体と精神をとても信頼している。少なくとも「私」なんかの一回目で二十何年しかない浅い人生経験より遥かに優秀であるはずだ。人類という圧倒的年数と圧倒的数。厳しい時代や環境の洗礼を数々くぐり抜けてきたそれらが「私」より馬鹿であることは考えにくい。だから身体や精神の選択に従わない理由を私は持っていない。強く個人でありたいと願う人なら別だが、私にはそんな願望はない。

 

 

中途半端さがもはやいい

まぁそれに従った結果、今底辺である訳だがこれが私の人生の最適解なのだろうと思う。別の生き方が私にあるとは思えない。これは諦めではなく心底感じていることである。実際、今の人生を私はとても気に入っている。思索するための一人の時間はあるのに、かろうじての労働で社会とも繋がっている。この中途半端さが実に私らしくて、もはやなんだか愛おしい。

 

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