底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

部屋の綺麗さと精神状態は反比例する

私の部屋ってこんなに広かったんや

久々に部屋を片付けた。見渡してみると私の家なんもねぇな。まるで私みたいだ。

 

 

部屋の綺麗さと精神状態は反比例

「部屋の綺麗さは精神状態と比例する」なんて言う人がいるが、それには賛同しかねる。私は部屋が汚い時の方が圧倒的に精神状態がいい。私にとって部屋の汚さとは「まだ死ねない気持ち」なのである。汚なければ汚いほど生きる活力があることを表す。こんな汚い部屋誰かに見られたらおしまいだ、片付けるまでは死ねないな、それまで頑張って生きよう、そう思えるのである。部屋が片付くと、あ、今なら生きていても死んでもどっちでもいいやという気持ちが湧いてくる。私にとって恥ずかしいことなんて部屋が汚いことくらいしかない。それが片付いたということはもうこの世に何も未練がないということになる。何も、は言い過ぎかもしれない。未練はほかにもあるが、気がかりなことはそれくらいである。

 

 

〜できるなら〜したいってずるくない?

生きていられるなら生きていたいと私は願っている。でもこんなの何も願っていないのと同じである。「〜できるなら〜したい」という構文は本当にずるい。何がずるいかといえば、したいのかしたくないのかを事前に決めずに、あくまで自分にその権利があるならという低姿勢を装った高慢的態度がずるい。批判を恐れ、「権利」という絶対的庇護下のもとでしか自分の願望を口にしない保身的な姿勢はまことに気持ち悪い。それなら何も口にしない方がまだましである。

 

 

部屋が綺麗だと人間として終わる

部屋を片付けることで、私は余裕という名のそういったずるさを身につける。片付いていなかった時は「何があっても死ねない!」という固い意志の元で毎日歯を食いしばって生きるのだが、部屋が綺麗になると「まぁ生きていられるなら」という人生を侮辱した形で生き始める。人によってはこれは素晴らしいことなのかもしれない。しがらみから解放され自由に自分の人生を生きられるようになるのだから。しかし私にとってはやはり危惧すべき事態なのだ。なぜなら私には(本当の意味での)したいことなどないからだ。しがらみが無くなることは即ち生きる目的を失うことを意味する。惰性でかろうじての生命維持をするくらいしか人生にやることがなくなってしまう。そんなの死んだ方がマシであろう。部屋が汚くなることはもはや私にとっては喜びである。必死に毎日にしがみつくことができ、人間としての尊敬を取り戻せる。

 

 

恥は人間を人間たらしめる

他人には見せられない面をやはりひとつは持っておくべきだ。それこそが人間を人間たらしめる。恥は人を生に繋ぎ止めてくれる、とても大切な感情である。簡単に片付ていいものじゃない。

 

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