底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

終わるということは希望である

あと二ヶ月あと二ヶ月あと二ヶ月…

今日で七月も終わりか。身体には寝不足やら疲れやらからくるダルさを感じるのに、心は随分軽やかである。仕事をやめると分かっているからであろう。終わりを確信できるということは大変素晴らしい、それを改めて実感させられた。「どうせあと〇〇日で終わる」、その精神が全てのことをどうでも良く感じさせる。仕事なのであるからもちろん最後まで責任をもってやり遂げる、そちらは無下にしたり雑に行ったりはしないが、心持ちとして今ならどんなクレームにも、どんな理不尽な説教にも耐えられる気がする。心の中で「あと二ヶ月あと二ヶ月あとに二か月…」そう唱え続ければいいのだから。

 

 

人生は絶対に終わる

終わりを確信できるということは大変素晴らしい、それは人生にも言えることである。自分は死ぬのだとはっきりわかることはある種の希望になり得る。ただ人生の方はいつ終わるかというのがはきちんと決まっている訳ではない。その事が時々人を悩ませる。生きているということを苦行に感じる時、それがあとどれくらい続くのか分からないことは大変煩わしく辛いことであろう。そういった悩みに「あと数十年で確実に終わる」などと軽々しく言うつもりは無い。それに数十年も耐える理由がないからこそ苦しいのであろうから。確実に終わる、しかしいつ終わるかわからない。終わりが見えるんだか見えないんだかあやふやな感じが本当に人生らしい。だがどんなにあやふやだろうと、その終わりが見えようと見えまいと死ぬことはやはり判然たる事実である。終わるのだ。絶対に。

 

 

死ねない恐怖>>>>>>>>>死ぬ恐怖

自分から死にたいとは私は思わない、だがいつか死ぬということは私にとって喜ばしいことである。少なくとも何があっても死ねないという状況よりは遥かによいことである。死ぬことの恐怖は死ねないことの恐怖に比べれば可愛いものである。どんなに辛いことがあろうとこれが永遠に続くことはない。だっていつかは死ぬのだから。そう思えるのが私には救いなのである。

 

 

愚者の成れの果て

死によって生きる態度を変えることは間違いである、と思う人がいるかもしれない。あの有名な哲学者であるヴィトゲンシュタインも「死は人生の出来事ではない。人は死を経験しない。」と言っている。確かに自分の死というのを人は経験できない。死は人生の中で起きるイベントでないことは確実だ。だがそんなのは知ったこっちゃない。私は賢者ではない、正しいものでもない。自分の生き方と正しさが一致しなくても、苦しくはならないくらいには鈍感で愚者である。だから何が真実かは自分で決める。たとえそれが間違いだとしても、私には関係ない。死を希望に生きていく。

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