底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

最近はやけに書くことについて考えている

ブログを書きたい≒読まれたい

毎回ブログに向き合っては何を書くかと迷っている。この態度からしてやはり私は書きたいことなどない。書きたいことはないが書くことはしたい、それが私のブログに対する根本的なスタンスのようである。しかしこの事態はやっぱりどこかおかしいように感じる。書きたいとはいっても、きっと私は日記を書いたりするのでは満足できない。不特定多数の他人に読まれる可能性があるところでないと書く気になんてならない。ならここでの書きたいとは即ち「読まれたい」と表裏一体なのだろう。私は他人に自分の書いた文章を読まれたい。なんで?なんの為に?やっぱりこれは承認欲求の類ではないか?

 

 

自分の事だけど知らん

承認欲求を満たす為にブログを書く、それ自体は別に悪いこととは思わない。なんの為に書いたってそんなのは自由である。しかし承認欲求の為に書いているのに、そうでは無いふりをするということには一定の気持ち悪さが伴う。それを自分が自覚してないなら尚更だ。だが私は承認欲求の為に書いているのか?と自分に問うと「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない」という答えが返ってくる。なんじゃそりゃ。私の頭じゃ理由を考えても何も始まらんようだ。もういいや。

 

 

目くそ鼻くそって書いてみたかっただけ

なんの為であれ、私は書くことがしたいということに変わりはない。ただ事前に書きたいことがないというだけである。書くために書きたいことを捻出したって別にいいはずだ。確かにあべこべ感は否めないけれども、そういう風な存在がいてはいけない理由はないだろう。書くことがしたいけど書きたい事がないから承認欲求を利用して書きたいことを創造しているのか、承認欲求を満たしたいから唯一自分でにできそうな書くことを利用して書きたいことを創造しているのか、そんなのはもう目くそ鼻くその違いだろ。どっちにしろ、書きたい事がないのに書くことがしたいは事実なのだから。問題はその事実をどう解決するべきかであって、事実の解釈なんてさして重要ではない。

 

 

どう足掻いても私は底辺

天才は書きたいことが天から降ってくる、秀才は自分で書きたいことを用意出来る、凡人は書かなくても生きていける。私はそのどれでもない。やはり紛れもなく底辺である。このでこぼこで読みにくい文章が全てを物語っている。天からは選ばれず、努力する根性もない、かといって欲求を捨てることもできない。めんどくせぇ人間だこと。しかしそれが私なのであろう。どう足掻いても付き合い方を覚えていくしかない、ブログがその過程の一つになっていることを願うばかりだ。

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