底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

本当にやらざるを得ないことならいつか必ずやるはめになるのだから今やらなくてもいいやろ

信頼していないが頼る

明日の自分というのはどれほど信頼に値するのだろうか。私には全然信じられない。なぜなら私は常に、鬱陶しいことの全てを明日の自分に託しているからである。いつも未来に託し続ける人間など信じられるわけがあるまい。明日の自分がやってくれるわけが無いと思いながら、それでも私は明日にめんどくさいことの全てを持ち越し続ける。その理由は単純で、ただ今やりたくないからである。

 

 

本当にやらざるを得ないことならいつか必ずやるはめになるのだから今やらなくてもいいやろ

私はそういうやりたくなさを常に未来の自分に預けることで生き延びてきた。夏休みの宿題は八月三十一日から始めるタイプだったし、職を探すのも貯金が底を尽きて食べるご飯がなくなってからであった。「計画を立てる」とか「毎日コツコツ」なんてのは、全くもって私には無縁の言葉である。それでも私が辛うじて大学を卒業して今無事に職にありつけているのは、八月三十一日の自分が決して九月一日に宿題を持ち越さなかったからであり、お金がゼロ円のまま餓死することを選ばなかった自分がいたからである。つまり何が言いたいかというと、やらざるを得ないことが本当にやらざるを得ないことなら、いつか必ずやるはめになるということである。だから、やらざるを得ないことから逃げられるうちは逃げ続けるに越したことはない。逃げ場が無くなった時に捕まるのなら、それはもう本望である。

 

 

やっぱり後悔はいややん

私は今でも「八月三十一日の自分」と「ご飯にありつけずに職探ししていた自分」のことを「不運」だと思っている。申し訳ない気持ちや感謝の気持ちは全然ない。それは仕方の無い事だったんだ。別に「彼ら」がその時にやらない選択肢を選んでいたとしても、私は過去を呪ったりはしないだろう。今の自分がやりたい事をやる、その代わりに未来や過去の自分にもやりたいことだけをやる権利を認める。その結果どんな自分になってもそれを「運」として引き受ける。それが私の生き方である。なぜこんな生き方なのかと言えば、それはたぶん「死ぬ時に後悔したくない」からである。もちろん、そもそもこんな生き方しかできない説もあるが、それを抜きにして考えてみると、私はやっぱり死ぬことを恐れているのだろうな。いつ死ぬか分からないから一秒後に死ぬかもしれない、という馬鹿みたいな予測の立て方をしているのである。今健康だからとか、今まだ若いからとか、今安全な日本に住んでいるからとか、そういうことを根拠に何十年も生きられるとは信じられないのだ。

 

 

成仏してぇよ

やりたくないことをやっている最中に死んだら、死んでも死にきれねぇもん。きちんと成仏してぇよ。

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