底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

素の自分とのギャップが苦しいなら

神と私のみぞ知る秘密

もし何かのふりが完璧にできる人がいるとしたら、それがふりであるということを知るのはその人自身と神だけであろう。その意味で、ある行為が他者にとってもふりであるには必ずふりであることがバレていなければならない、バレずに遂行した場合は「元からそういう人」として認識されるだけである。他人にとっての私の「素」と「ふり」の違いなんてのはその程度なのだ。何かが「素」である為には、要するにふりであることがバレなければいいのである。「本当に」素であるかどうかなんてのは全く重要なことでは無いのだ。

 

 

難易度が桁違い

だから他人に「自分は〇〇な人である」と思われたいという願いは、研究し完璧にふりをすることが出来たならある程度叶えられるだろう。だがもし、他人に「〇〇な人」と認識されるだけでなく、「素」で「〇〇な人」でありたいと願うなら、こちらはとても困難をきわめることになる。

 

 

それができれば苦労しないよ

世の中には「〇〇な人」になるプロセスらしきものが沢山あるが、そのどれもたいていが嘘であると言わざるを得ない。自己肯定感が高い人になりたければ成功体験をつみなさいとか、優しい人になりたければ余裕を持ちなさいとか、そんなのができるなら最初から人は悩まないだろう。まさに何をしても成功しているとは思えないから自己肯定感が高くならないのであり、どんな状況でも余裕を持てないから優しくなれないのである。それができれば苦労しないよ、と言いたくなるようなものばかりが世間には溢れている。ことの核心は「自分自身が〇〇な人間であると自分で思えるようになるにはどうすれば良いのか?」なのだから、考えるべきはそちらのプロセスであって、〇〇の中身を個別に考えてもなべて徒労に終わるだけである。

 

 

素の自分とのギャップが苦しいなら

そもそもなぜ「〇〇な人と他人に思われる」だけでは気がすまずに「素で〇〇な人」になりたいと思うことがあるのだろう?それは自分自身にだけ分かる本物とふりとのギャップや齟齬が苦しいからではないか?つまり「本当はそうではない」ということが苦しみの種なのであろう。それなら解決方法は、〇〇な人のふりをしている自分さえ「本当」に入れてあげるか、ふりをやめて「本当」を普通に他人にも晒していくかの二つだけであろう。個人的には、他人に「本当」の自分を見せるのはかなり恥ずかしいので、前者が性に合っている。他人には(比較的)綺麗な自分を見せつつ、綺麗なふりをしている自分もきちんと「本当」の自分自身として受け入れてあげる、そうすればギャップや齟齬は苦しみの種から愛おしさに変わるだろう。

 

 

かぐや様は告らせたい』一気見しました

「あらあら背伸びしちゃってお可愛いこと」と心の中でお嬢様を飼ってみるのおすすめです。

f:id:kabiru8731:20210809191146j:image