底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

大切なものは失くしてから気づくのではなく、失くなることによって初めて大切になるのだ

大切なものは失くしてから気づくのではなく、失くなることによって初めて大切になるのだ

「大切なものは失くしてから気づく」というような言葉があるが、この言葉少し美化していないか?と思う。失くしてから気づくということは、なくす前は単に大事ではなかったというそれだけの事であろう。なくしてから大切であることに「気づいた」のではなく、失くしたからこそ大切に「なった」のである。「失くなった」ということがそれを大切にしたのだ。

 

 

なくなるけど今じゃない

「ある」ということはそれだけ人々にとって当たり前なのである。当たり前すぎて、それがなくなることを人は普通は想定しない。今日あるものは明日もあるし、その先も暫くはあると思っている。しかし、今使っている物はいつか壊れると人は理解しているし、今接している人とはどんな形であれいずれ別れが来ることもちゃんと分かっている、ただ「今じゃない」と永遠に思っているだけである。人には「ある」を非常な事として捉える能力がないのだ。だからそれがある限りでは貴重な事としては認識せず、なくしてから、なくなるというその事によって初めて貴重になるのである。

 

 

理性では分かるが想像できない

なぜ人は「ある」を非常な事として認識できないかと言えば、それは完全に「無」が想像できない事によっている。無は無いから想像できないという至極当然な理屈によって、人間の能力では「ある」ことしか捉えることができない。だから「無になる」という意味を持つ「死ぬ」とか「失くす」のような概念は、理性ではどういう事か理解できるのにも関わらず、想像力が追いつかないために身近に感じることができないのである。

 

 

世界があるんだぞ!?やばすぎでしょ!?!

だが人間には想像するのが困難というだけで、やはり「ある」は非常なことであろう。「世界がある!」という文章をまじまじと考える時、私はその不思議さに思わず大笑いしたくなる。世界がある!?なんで!?それは何があるってことなの!?「ある」ということが強烈な驚きを持って私の胸に立ち返り、何もかも分からないのに「ある」ということだけがはっきり分かる、そのおかしさに笑わずにはいられない、どんなジョークよりもジョークじみているこの現実を、それでも私は真面目に生きている。

 

 

人間はそういう風にしかものごとを大切にできない

「ある」ことをどこまでもツネとして、「なくなる」ことをどこまでも非常と思う。そういう風にしか人間は生きていけないのであろう。いつも貴重そうに何かを大事にしてたら、もはやそれはもうすぐ失くすというフラグにしかならない。人間にとって何かを大切にするということは即ち、それがあるうちはあるのが当たり前と思うことであり、それをなくしてから「大切だったのに気づかなかった」と嘆くことなのである。

f:id:kabiru8731:20210811190651j:image