底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

他人の文章を読む理由

他人は何を言っているのか分からない

他人というのは得てして何を言っているのかよく分からない。特にブログや本など、日常的なことから外れたその人の思想や考えが色濃く現れるものに関しては、読んでいてもスっと頭に入ってこない。何回読んでも「なーに言ってんだおめぇ」となる事がしばしばである。もちろんそうなることの原因には私の理解力の問題があるだろう、だがそれは本質ではない。

 

 

なーに言ってんだおめぇ

なぜ人の書いた文章を理解できないのか、それは当たり前であるが、普段人それぞれで感じていること考えていることが全然違うからだろう。他人が表現しようとしているところの問題や重要性をそもそも私が感じとれていないからこそ、「なーに言ってんだおめぇ」となってしまう。結果的に私が人の文章を読んで思うことは「お、この言い回しいいな」とか「この例えの出し方参考になる」とか、たいていがその文章の内容とは関係がない、言葉の技巧的なことになっている。

 

 

スルメイカってうまいだろ

結局人は、自分の感覚と似ている人の考えしか理解することができないのだと思う。なぜなら感覚の違いとはそのまま世界のあり方の違いだからである。私はスルメイカがとても好物で非常に美味しく感じるが、もしそれをまずいと感じる人がいたら私達はどのようにわかり合えばいいのだろうか。私には絶対にその「まずさ」を理解できないし、逆にその人は私の「おいしさ」を決して理解できないだろう。彼が「スルメイカは〇〇だからまずい」という文章を書いたなら、一体私はどうしたらその文章を分かることができるだろうか。

 

 

他人の文章は読んでもどうしようもないから読む

でも、そうであるなら他人の文章を読む価値とは一体どこにあるのだろう。感覚が違う他人の考えをどうしたって理解できないのなら、それらの文章が私の血や肉となることがないのなら、読んでもどうしようもないではないか。そうなのだ、本当にどうしようもないのである。だがそれでも私は読むのだ。いや、だからこそ読むのだ。生涯を通してでも絶対に理解することのできない考えがあることは私にとってこの上ない希望だからである。「なーに言ってんだおめぇ」と言える文章に出会った時、私は心底安心するのだ。

 

 

他人の文章は私を再認識させてくれる

他人の考えを完全に理解できる事の恐ろしさを考えてみたらすぐに分かるであろう。他人が私にとって不可解な存在でない時、もはや他人は他人ではなくなる。私は他人とコミュニケーションする理由を完全になくしてしまうし、そもそも私の存在すら何をもって「私」とするのかあやふやになるはずだ。全ての考えを完全に理解し納得することができるなら、考えに私も他人もクソもないであろう。好みや視点が異なる他人が存在するからこそ、私は私であることができるのだ。理解できない他人の文章は、私自身を再認識させてくれるのである。

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