底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

コロナワクチンと多数派についての記事

ついにワクチン一回目

いよいよ明後日コロナワクチンをうちにいく。ついに半分世間から足を踏み外している私のところにも順番が回ってきたか。まぁ予約をしたのは自分自身であるから驚くことはないのだが、めんどくさがりで毎日を死んだように生きている私がワクチンにこぎつけられたのはなんだか私的に感慨深い。私は生きていたいからワクチンを打つのではない、コロナの症状が怖いからワクチンを打つのでもない。ただ「打つ理由がない」から「打たない理由がない」に変わったから打つのである。この変化は完全に世間によっている。つまりは多数派が変わったから私も変わったのだ。

 

 

多数派でないことには理由がいる

多数派でないことには理由がいる。これは人間の?今の世の中の?日本の?私の周りの?かは分からないが、とにかく自分の肌感としては常識である。結婚しない人は結婚しない理由があるか、結婚できないかの二択に分けられるし、無職の人は働かない理由があるか、仕事にありつけないかの二択に分類される。結婚できるが結婚しない、仕事できるが仕事しない。そういうことは基本的には許されていない。許されていないというのはそれができないという意味ではなく、人に会う度ほとんどの確率で「なんで結婚しないの?」「なんで働かないの?」と聞かれるということである。「ただ」結婚しない「ただ」仕事しないのはだめなのだ。

 

 

わかっているけど実践できない

多数派は正義ではない。幸せは人の形だけある。そんなことはわかっている。だが心の底からそれを体感して実践するのはとても難儀である。なぜなら自信が持てないからだ、本当にこれが正しいのか、本当にこれが私の幸せなのか、確証が持てないから、そこに「正解」があると信じたいのだ。昔は宗教が「正解」を演じる役割を果たしていた。神を信じ神の規律に従えばそれが即ち正しいことであり、幸せだったのである。無宗教が主流の今その役割は多数派に任されたのだ。

 

 

ワクチン論争における「べき」の意味

ワクチンを打つべきか打たないべきか、巷のそういった論争には一切興味が無い。明日も確実に生きていける保証を貰うより、今日を後悔なく死にたい私にとって、そもそも「べき」なんてものは何の役にも立たない。ワクチン論争における「正しい」とは「その方が何事もなく長生きできる」という意味なのだから、その共通認識がない人間が、そういったトピックに関心を持てるはずもない。

 

 

馬鹿のたわ言

生きることに関して私はとにかく他力本願である。その他力がこの時代の日本ではたまたま多数派だったから私はそれに従っている。自分の頭で考えない馬鹿と言われれば、本当にその通りである。とっても馬鹿なのよ、私。でもそんな馬鹿な私を私は気に入っちゃったのよ。仕方ないですね。馬鹿だから。

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