底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

居場所がないことに拘るのが私の原点(たぶん)

眠い中書いたので、いつも以上に駄文乱文であることをお許しください。でも眠いおかげで余計なことを考える体力が残っていなかったので、色々削ぎ落とされて私の原点を書けている気がする。

実際に居場所があるかないかとは関係なく、居場所がないと思い込む。それが私の原点であり、究極のこだわりなのだと最近気づいた。生まれてくるのは私じゃなくてもよかったけど、私だった。完全に偶然である。その偶然に乗っかった行為を行わないこと、その偶然を愛さないこと、その偶然を偶然として受け止めることが私のしたいことである。

 

 

もう体力がないので章のタイトルはテキトーです

私の言う私と他人が言う私の意味は全然違う、決定的に違う。その違いこそが私と他人を絶対的に分かつ。私の言う私は今ブログを書いているこの人のことではない、この人は完全に私でなくてよかった。私でなくていいの意味とは、このブログを書いている人はこの人としてただ存在すればそれで良かった、ということだ。その目から「実際に」世界を見られなくても、その鼻から「実際に」匂いを感じなくても、怪我をした時「実際に」痛くなくてよかったではないか。ただ他人と同じように存在すればよかったのに、なぜそうではなく、この人だけ変なあり方をしたのか。なぜこの人の目からだけ「実際に」世界が見えるのか、なぜこの人の鼻からだけ「実際に」匂いが分かるのか、なぜこの人が怪我した時だけ「実際に」痛いのか、その全ては謎である。

 

 

まぶたが今にも閉じそう

他人の言う私とは常にこの人のことでしかありえない。他人はそのようにしか私を認知できない。この人から私だけが消え去ることは普通にありうる、私の死は誰にも認識されない。その目から実際に世界がみえていて、その鼻から実際に匂いを嗅ぐことのできる、怪我をすると実際に痛いと感じる「私」だけが死に、この人は普通にこの人として存在し続けることは簡単に想像出来る。世界でこのことを認識できる人は誰も存在しない。およそ神にも無理である。

 

 

眠い眠すぎる

他人は私を認知できない、だからこそこの世に私の居場所はない。他人にとって最初から私など存在していないのだから当たり前である。私はそこに拘りたい。なぜならそれは私にしか知りえない事実だからである。前にも書いたが、この人は世界の中の登場人物のひとりだが、私は世界を映すテレビのモニターなのだ。私がモニターであることは、その中に映されている人物に知られることはありえない。しかし、やはり他人が知ることが出来ないだけで、私がモニターである事実は存在しているのだ。私にしか拘る権利がない事実。なんて素晴らしい響なのでしょう。私はその事実をわが子のように抱きしめて死にたい。私がこの世に存在する意味があるとしたらそこにしかないんじゃないかな。知らんけど。

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