底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

習慣化された書くことの意味とは

惰性で書いている

完全に書くことが惰性になっている。書くことに慣れる日なんてこないと豪語していたあの頃の私はもういない。千字くらいならテキトーにポンと書けてしまう。内容はまぁ置いといて、千字という量にはすっかり身体と頭が適応して来ている。これはいいことか悪いことかと自問してみるに、およそ八割方悪いことである。当たり前だが質がよくない量に意味はない。このまま書き続けていれば質が勝手に向上するなんてうまい話があるとも思えない。最もまずいことは、量だけはこなしているから、「私は何事かを成し遂げた」という虚構の満足感が常につきまとっていることである。

 

 

それでいいはずなのによくない

しかし考えてみるに、このブログにおいての質が高いとはそもそもどんな文章のことなのだろうか。このブログには目指していることなどない。ただなんとなく自分の毎日に書くことを取り入れたいから始めたのであって、その他に文章を書く理由はとくに思い当たらない。ならばそもそも質などこのブログとは無縁ではないか。惰性でもなんでもただ書ければそれでいいはずであろう。その通りであるのにこの釈然としない心のモヤモヤは一体なんなのだろうか。

 

 

あの感覚を思い出せない

shikouzakki.hatenablog.com

五十記事を達成したときの私は「毎度毎度空っぽの自分を一生懸命、雑巾のように絞っては、そのギリギリ垂れてくる何滴かの雫をなんとか文章にしている」と言っていた。この感覚はもう身に覚えがない。最後に自分を必死に絞ったのはいつだろうか、まったく記憶にない。いつの間にか書くことに身構えなくなったし、書けなかったらどうしようという不安に駆られることもなくなった。今の私にとって書くことはもはや単にご飯を食べることと、散歩をすることと何ら変わらない生活の一部でしかない。普通に考えたらこれはいいことなのかもしれない。月並みな言葉で言うならこの事態は「習慣化に成功した」ということなのだから。

 

 

単なる懐古厨なのかもしれない

しかし、素直に喜べない。たぶん私は書くことに慣れていない自分が好きだったのである。書くことのためにあくせくし、書くことのために一喜一憂し、書くことのために生きていた頃の自分はとても輝いていた。今日の分が書けたというだけでは決して満足せず、過去に書いた記事を何度も読み返したりしていたし、ブログのネタを思いつかないことは当時の私にとって世界の終わりに等しかった。

 

 

答えが出たらまた報告します

今となってはもう全然である。書くことはただ書くことでしかない。そこにもはや他の如何なる意味もない。思考停止された、ただ習慣として書く文章にどんな意味があるのだろうか。そこに意味を求めることがそもそも間違いなのだろうか。最近はずっとそんなことばかり考えている。

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