底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

生きるために何かをすることができない

何をするのもギリギリ

いつも時間ギリギリ、最悪間に合わないかもという瞬間になるまで筆をとる気になれない。書くことだけではない、私の生活全部がそう。起きるのもギリギリ、ご飯を食べるのもお腹が空いて不快になってから、寝るのも眠くなって仕方ない時に勝手に寝落ちするスタイル。余裕を持つことが大人になるということなら、たぶん私は一生大人にはなれない。何故こうも余裕が持てないのかといえば、それら全てがやりたくないことだからである。生きているそのことがめんどくさくて仕方ないのである。

 

 

無になりたい

私の人生での願いはいつも同じ。それは無になることである。昨日書いた「私である」を目指すというのも要するに同じ意味である、最後には全部「私でない」となり、「私であることなんてなんにもない!」となることを私は期待している(その時私はもういないが)。無になる為の活動以外は全部したくない。生きているという状態は私にとって望んだものではない。もし誰かになぜ生きているのですか?と聞かれたら、私は生まれてまだ死んでないからと答えるだろう。生きるためにあれこれする、その事が絶望的に私にはできないのである。

 

 

死ぬ≠無になる…?

無になりたいなら、今すぐ死ぬのが手っ取り早い。現在の死生観からいえばこれは最も効率的で正しい答えであろう。しかし、私はその死生観をちっとも信用していない。といって何か死後の世界があるなんてことを思っているわけでは無い。ただ分からないのである。分からないとはっきり分かっていることに賭ける程、私は生に絶望していない。

 

 

何もするのも消去法

得てして私が何かをするのは、それをしない方がよりめんどくさいことになる時だけである。食事をするのも仕事をするのも文章を書くのも本を読むのも、そうしない方がめんどくさい、そうしない方がエネルギーを消費する。そういった極めて消極的な理由であれこれしている。本当なんで生きてるんでしょうね。さっぱり分からない。

 

 

人間のフリがお上手で

時間的余裕がないからといって、別に私は切羽詰まってはいない。ギリギリの時間で何かをこなすことは自分の能力を知れるようで楽しいし、ギリギリまですべきことをしない背徳感というのもなかなか味わい深い。時間的余裕はないのだが、時間的余裕がない自分を楽しむ余裕を私はいつも持っている。悪くいえば、私は自分のことさえも他人事のようにしか生きられない。自分の人生がどうなろうとあまり興味関心を持てない。これは人間としては決定的な欠陥なような気がする。あ、でも別にいいのか。人間みんな人間のフリして生きているだけだものね。

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