底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

ふつうの人生ってなんだろな

ふつうの人間って見た事ありますか?

ふつうの人間というのを私は一度も見たことがない。死ぬまでにこの人は頭のてっぺんから足のつま先までふつうだ〜と感じる人に出会ってみたい。そんな人いたら逆にふつうでは無いような気もするが、とにかくそんな人が実在するのかとても気になるところである。

 

 

ふつうでないけどふつうにふつう

私は自分のことをあまりふつうでないと認識している、かといって別に異常と言える程でもないと思う。ふつうの二十五歳、ふつうの女、ふつうの社会人とは言えないけれども、常識などはそれなりに弁えているつもりであるし、犯罪行為にも手を染めたことはない。他人と人付き合いする上での最低限のマナーやルールといったものも(たぶん)守れている。私が自分をふつうではないと思う最大のポイントは、その脆弱さ(ある意味で強さ)である。決して誇れることではないが、私ほど自分の人生から逃げ続けている、逃げ続けられている人、なかなかいないんじゃないかと思う。自分の未来を考えることが苦痛で仕方ないから、哲学(自称)をはじめ、自分の現状から目を背けるために、書くことに縋っている。およそ人生と対峙しない為にはなんだってしてやる、そういうとても褒める事のできないひん曲がった覚悟を私は持っている。ふつうはもっとふつうに生きられるはずだが、私にはどうしても無理だったのである。

 

 

ふつうは諦めた

ふつうになりたい、と私は今でも思わなくもない。だが九割くらいはもう諦めている。自分を諦めるか、ふつうを諦めるかの二択が人生に迫る度、私はふつうを諦めてきたのだから、今さらふつうになりたいとほざく資格もないであろう。ふつうに生きて、ふつうの幸せを享受して、ふつうに死ぬ。憧れはあるものの、それらが私の人生に起きないことは火を見るより明らかであるから、手を伸ばすのも億劫である。

 

 

ふつうの人生という幻想

ふつうとはなんだろうか。ふつうになりたいと願う人は一体ふつうにどんなことを求めているのか?たぶんそれは「イヤなことが起きない」ということでは無いだろうか。自分のイヤだと思う事が起きることを人は不運と呼ぶ。不運とは言わずもがなふつうでない。ふつうになればこのイヤなことは解消されるはずという思考回路で、人はふつうになりたいと嘆く。だが、イヤなことが起きない人生なんて本当に存在するだろうか。そんなの本当に人生と言えるのか。大なり小なり訪れる人生の苦しみから解放されたいという人々の願いが、ありもしないふつうを創り出し、そのことによってふつうになれないという新たな苦しみが生み出される。もはや、ふつうは全然ふつうではない。だが、それがふつうの世の中というものであろう。

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