底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

過去はどこにもないのにある

過去が一番興味深い

過去はどこにあるのだろうか。哲学の中でもとりわけ私が関心を持っていることである。過去・今・未来という分け方をした時に、今があることはもはや疑いようがない。未来は端的にないと納得できる。だが過去だけは様子が異なる。過去があることは確実であるように思われるが、しかしどこにあるのかと辺りを見渡してみても、必死に考えを巡らせてみても、「ここに確かにある」と言えた試しはない。

 

 

過去はどこにあるのだろう

私はついさっきまで家にいて、ブログを書くために喫茶店に来てカフェオレを一杯頼んで、今席に着いたところである。さて、この時私がついさっきまで家にいた事実は一体どこにあるのだろうか。私の記憶の中に?いえいえ、私の記憶の中にあるのはどこまでも記憶にすぎないだろう。それは過去の痕跡なのであって過去そのものではない。私が知りたいのは過去そのものはどこにあるのかということである。「ほら、見て見て、これが過去というものよ」と指をさせるような過去は一体どこにあるのだろうか。

 

 

記憶と妄想の違いってなんだろう

そもそも記憶というものも変である。記憶と妄想を隔てるものは何かと考えてみる。妄想は現実ではないからまさしく妄想である。妄想は現実ではなく他人に知られることもないと分かっているからこそ、人はあんなことやこんなこと、時には確実にお縄につくようなことさえ考える。だが記憶とて同じではないか。記憶されている当のもの、つまりは過去そのものは世界のどこにもない。確かに私が今家に帰れば、そこには脱ぎっぱなしになっている部屋着や急いで出たがために消し忘れた電気がついたままであろう。だがそんなのは「今」私が「そのように」見ているだけではないか。「そのように」見えるのは、単に私がそう妄想したから、という可能性は拭うことができない。記憶と妄想の違いなんて、本人が「なぜか」あることを記憶とし、「なぜか」あることを妄想としているだけである。〇〇だからこれは記憶、〇〇だからこれは妄想なんて区別の仕方ができるとは到底思えない。

 

 

過去を解決すれば人生は解決する

私がこれ程までに過去に関心があるのは、過去さえ解決すれば、およそ人生での憂いなど全て消えうせるからである。過去を持つから人は生に愛着を覚える。過去を持つから人は今を恥じらう。過去を持つから人は未来を心配する。過去を持つから人は人であることができる。過去が人間の妄想にすぎないのなら、その全ては途端に馬鹿らしくなる。私は人生を嘲笑うことが出来る。過去が妄想なら「私」すら幻想になるのだから。そんなことを本気で考えていたりする。さて、カフェオレは飲み干した、喫茶店を出ますか。喫茶店を出て、「喫茶店を出た」という過去について、また考えることにしよう。

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