底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

素直に百記事達成したなんて喜べるわけはない

百記事

うへーなんと前回の記事でついに百記事を達成してしまったらしい。してしまったというのはここまで来るとは思っていなかったし、素直に「やったー!」と喜べる程に充実したブログ記事など書いてきていない自覚がはっきりあるからである。数だけを眺めると、自分すげーという気持ちにならなくもないが、内実を知っていると手放しには喜べない。結局私にとって文章とは書かなければ書かない程いいものなのである。

 

 

よくない自分を治そうとしてする行為全般が苦手だ

生きていれば必ずする行為、それは歯磨きから他人との会話まで実に様々なものがあるが、私にとって書くことは永遠にこの中には入ってこない。書くことは言わば、癒しのようなものに似ている。癒しというのは、そもそも肉体的な疲れや心理的な悩みを抱えなければ端的に必要ないものであろう。疲れや悩みを抱えるから癒しは必要なのであって、生きていること自体に依存的であるわけではない。しかし生きていれば疲れや悩みを抱えるのは必然であろう、癒しはその意味で生きていることに依存的であると言えるではないか、と思うかもしれないが、答えはやはりNOである。疲れや悩みを感じないことは確かに不可能かもしれないが、それらを存分に楽しみ味わうことはどこまでも可能である。つまり疲れている自分に疲れないで、悩んでいる自分に悩まないで、これが人生か〜などと楽しんでいれば、別に癒しは必要としないのである。癒しは必ずそういった余裕がないような「よくない」自分から必要性が生まれる、それが私の持論である。

 

 

癒しと趣味と娯楽

癒しと同様なものに趣味とか娯楽がある。そういったものにも、「人生自体はあまり楽しくない」というようなニュアンスを感じとれる。人生自体が楽しければ、趣味や娯楽なんてわざわざ必要ないのである。それらは生きていることの中に含まれる必然的要素ではないのだ。呼吸や思考などといった必ず生と結びついているものとは確実に一線を画しているのである。

 

 

 

健全な人生を送りたい、書くことをやめたい

何度も書いたきたことだが、私の目標は無になることなので、生にとって必然的ではない要素はできるだけ取り除いておきたい。死によって全ては無になるのだから、わざわざ癒したり、わざわざ趣味をもったり、わざわざ娯楽を楽しむことは全て無駄である。人生の苦しさを直視したくないが為に仕方なくそれらに縋りついているこの状態は端的に「よくない」。ただ今の状況を改善できない故に百記事までズルズルと来てしまっただけである。書くことは病的な依存症なのだ。書くことをしない方が、ずっと健全な人生である。

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