底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

私が悲しむから私の周りの人は死んではいけない

人生。嗚呼、人生。

人生。この二文字は他のどんな言葉よりずっしりと重たい響きをもつ時もあれば、他のどんな言葉よりも軽やかで儚さを漂わせる時もある。正反対とも言えるような感覚をこの二文字から感じとるのは、人生それ自体がどのようなものか、未だ人々にとっては大きな謎だからであろう。

 

 

なにゆえに生きる?

結局人生は生きなければならないものなのだろうか。人生において、この上ない辛いことや悲しいことに直面した時、それでもそれらを乗り越えて、これからを楽しく生きなければならないとしたら、それは何ゆえにそうなのだろうか。逆に最高だと思えるような幸福な出来事が起き、今死ねば有頂天な気分のまま一生を終えられると確信できる時でも、その先も生きなければならないとしたら、それは何ゆえにそうなのだろうか。

 

 

ともあれ生きていればよい?若くして死ぬのは痛ましい?

多くの人は生きているというその事だけで、それをよいこととし、死はそれだけで最大の忌むべきこととする。何はともあれ生きていたのだから喜ばしいことだとか、その若さで死んだのは痛ましいとか、そういった言動から簡単に生死に対するそのような態度を読みとることが出来る。しかし死後の世界が例え天国のような場所ではなかったとしても、無に還るだけだとしても、今まさに人生に大きな悲しみや苦しみを抱えている人は、死ぬ事によっておおいに救われるであろう。それはなぜいけないことや悲劇とされるのだろうか。

 

 

感情論を侮るなかれ

たぶんその理由は周りの人が悲しい思いをするから、という人間の根本的で至極当たり前な感情論によっている。今では馬鹿にされがちな感情論であるが、感情とは人間を構成する基本要素であるのだから少しも軽視する理由はない。「あなたは死んではいけない、なぜなら私が悲しむから」これ実に立派な理由である。死を考えている本人がそれを考慮するかどうかはまた別の問題で、私の周りの人は死んだら私が悲しむというその事において、「私にとって」彼らは死んではいけないのである。いけないとは、私が彼らに示す態度のことである。私の知るところで彼らが死を選ぶことがあれば、たとえそこにどんな思いが込められていようと、私は考え直すように諭すだろう。だがもし私の預かり知らぬところで彼らが死ぬことを選んだのなら、私は別にそれを悼んだりはしないだろう。それは私にとって彼らの死が悲しくないという意味ではなく、彼らの意志を尊重しその行為は彼らにとってきちんと意味があったのだと信じているからである。

 

 

ワカメワカメ

死という最大の謎が分かっていないのだから、私は自ら死ぬべきではない。これは私が私自身の人生にのみ適用している信念である。人生は生きる価値もないが死ぬ価値もない。そもそも、なんなのかさえわけわかめ

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