底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人それぞれでない価値観ってそもそもあるの?

なんでそんな当たり前なことを?

「価値観は人それぞれ」この言葉を耳にすると私はクスっときてしまう。なぜならそんなのは当たり前すぎるほどに当たり前だからである。わざわざ人に向かって主張する皮肉さがなんとも可笑しい。私にとってそれは例えば「ホットの飲み物はあったかいんだぞ」とか「右手は右側についているんだぞ」とかそんな風な言葉と同じ響きなのである。

 

 

価値観ってそもそも人それぞれであったりでなかったりできるの?

価値観とは文字通り価値の観念なのだから、そのことにおいて価値観とは最初から個人的なものでしかありえない。それが観念という言葉の定義なのだから、そこに「人それぞれ」なんて言葉を付け足すのは蛇足もいいとこである。観念とは平たくいえば、ある物事に対する個人の考え方なのだから、それが人それぞれでないというのは、そもそもどういう事態を指すのか想像することさえできない。ホットの飲み物が冷たいのがありえないように、右についてる方が左手ではありえないように、価値観が人それぞれでないことなんてそもそもありえないのである。

 

 

価値観は人それぞれである「べき」?

「価値観」と「人それぞれ」の意味の重複に加えて、それを他人に向かって主張することも更に笑いを誘う。「人それぞれ」であることを一体誰に同意して欲しいのだろうか。人それぞれであるのに人それぞれであるかどうかは人それぞれではいけないというのだろうか。誰もが"皆一様"に「人それぞれ」である必要があると言うのなら、そんなのちっとも人それぞれじゃないじゃない。

 

 

価値観って否定したり強要したりできるの?

たいていこの言葉は誰かに価値観を強要された時、或いは自分の価値観を否定された時に使うのだろう。だが価値観の強要や否定ってそもそもどうやったらできるのだろう。それらは考えなのであって、つまりは自分の頭の中にあるものなのだから、それらを変えたり否定したりするのは常に自分自身にしかできないはずではないか。自分の大切なものが物理的なものなら、他人に壊されることは大いにありえるが、それと同じようにして、他人が自分の頭の中に失礼して、勝手に考えを改ざんしたり壊したりできるわけはないのだから、強要とか否定とかそんなのは、価値観においては成り立たないであろう。

 

 

個人の価値観です…(逃げの構え)

どんな価値観であろうと考えに留まる限り、それは一概に自由である。その自由を他人が侵害することは、権利があるない以前にそもそも不可能である。価値観を強要されたと思うのは、自分自身の価値観に自信がないからであり、価値観を否定されたと思うのは、自分こそが相手の価値観を受け入れられていないからである。価値観は人それぞれなのだ。もちろんこの記事も私個人の価値観である。

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