底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

信じるの使い所が分からない

信じるとは

信じることは行為の一つなのであろうか。何かを信じたり信じなかったりすることの決定権は自分にあるのだろうか。例えば、他人の心。心とは自他共に目に見えるものではない。だが自身の心の存在は確実である。なぜなら感情や思いが端的にここにあるのだから。しかし他人の心はそうではない。少なくとも私は他人が何かを感じていたとしても、その感じを「直に」感じることはできない。他人は涙を流していても「実際は」悲しみも何も感じていないこと、ニッコリ笑顔でも「実際は」喜びも何も感じていないことは可能性としてどこまでも残る。論理的にはそうであるが、しかし他人に心があることを疑う人はいないだろう、というより結局は疑えないのである。どんなに懐疑的になっても、どんなに論理的に他人の心がない可能性を示されても、他人に心はないという実感は湧いて出てこない。なぜならそれは「最初からなぜか」そうなっているからである。私は常に無条件に他人に心があると信じているし、そもそも信じざるを得ないのである。

 

 

信じると決意することは裏返すと…

信じられることは信じるしかない、信じられないことは信じられない。信じる行為には自分の意志が介入する隙などない。人に出来るのはせいぜい「〇〇を信じたい」という願望を抱くことだけであるが、もちろんその事によって信じられない事が信じられるようになるわけはない。「あなたを信じる!」そういう意志による固い決意は一見かっこよく思えるが、裏を返せばそう強く決意しなければあなたのことは信じられないと言っているだけなのだから、本当はちっとも相手のことなんて信じていないのである。

 

 

信じるは無意識的で無根拠

信じるとはまことに無意識的で無根拠な行為である。しかしそのまことに無意識的で無根拠な行為がなければ人は一秒だって生きてはいけないだろう。自分は昨日も存在していたし、明日も存在し続けるだろうと意識するまでもなくなぜか信じているのでなければ、人はとうに狂っているに違いない。

 

 

他人の全部を信じられるならそれはもちろん凄い才能だけどね

他人を信じたいのに信じられない。そう嘆く人の声を時たま耳にする。しかしそう言う人だって、他人の存在や他人に心があることは立派に信じているだろう。彼らの言う信じられないとはつまるところ「他人は自分に害を及ぼさないとは限らない」という意味であろう。そして、そんなのは至極当たり前ではないか。「誰も彼も私に害を及ぼすはずがない」なんて信じている方がずっと変である。

 

 

この記事で言いたかったことは要するにこれだけ

何かを信じられるなら、その何かをあえて信じる必要はもうないのだし、信じられないのなら端的に信じることはできないのだから、意志の下にある信じるという行為はまことに無駄である。

f:id:kabiru8731:20211018001907j:image