底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

価値と価値観の関係について

価値観って全部好みじゃね?

私は私の書いた文章を気に入っているし、それなりの価値があると思っている。だがこれは私の価値観ではない。私は好きでそこに価値を認めているのではないからだ。私にはそれを価値と思わない選択肢などそもそも与えられていない。それは極めて受動的に「なぜか」価値を帯びて私の眼前にあるだけなのだ。そこには私の意志など少しも介入していないし、それを価値とするための判断基準も私にはないのだ。りんごが赤く見えるのを決めたのが私ではないように、自身の書いた文章を価値と決めたのも私ではない。俗に言えばこれは好みである。好みが好みたる所以はまさに「なぜか」好きということであろう。

 

 

そのもの自体に価値がある=私はそのものに価値があると思う

価値観というのは本来自分に使える言葉ではないのだ。なぜなら自分にとってみれば「そのもの自体に価値がある」と「私はそのものに価値があると思う」という二つの事態は完全に同じ意味だからである。私にはそれが、そのもの自体に価値がこびり付いているのか、それとも単なる自分の価値観なのかを判断する術がないのだ。「りんご自体が赤い」と「私にはりんごが赤く見える」も一人の単位で考えるなら全く区別のしようがないのと同じである。りんごを赤とは別の色に見える他者が現れて初めてその二つは違う意味を持つのである。しかしここからが難しいところで、その違いの原因をどこに求めるのが正しいのかを更に判断しなくてはいけないからである。つまり「その他者がりんごを赤く見えないのがおかしい」のか「私がりんごを赤く見えるのがおかしい」のか、そのどちらかに着地しなければならないのだ。色の場合はある意味で暴挙ではあるが、多数というものが正当性を担保してくれる。だが価値観の場合は「価値観は人それぞれ」であるためにそうはいかない。だからそれを価値とするのが正しいのか正しくないのかの議論は往々にして泥沼化してしまうのである。

 

 

多数がどうあれ事実は変わらん

だが仮に結論が出たとして、そしてそれが「私がりんごを赤く見えるのがおかしい」ということになっても、私にとってりんごが赤いということはやはりどこまでも事実として残る。「他の人には赤く見えなくて私にだけ赤く見える」と知ったところで、その事実は変えられないのだから結局りんごは赤いのである。

 

 

価値は人それぞれで違わない

しかし「私にとってだけ赤い」という文法は許されるが、「私にとってだけ価値がある」という言い方はできないのだ。なぜなら価値というのは人それぞれで違ってはならないものだからだ。個人的に千円札に一万円の価値を感じているからとて、一万円札として使えないのが当然の道理である。「私にとってだけ価値がある」は結局価値ではないのだ。

 

 

知らんけど

価値観は人それぞれで違うのに、価値は人それぞれで違ってはいけない。価値観に関する争いの火種は全てこの撞着から生まれているのです(神託)。

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