書くことは祈りである
自分にとっての書くことの意味が最近分かってきた。なぜこうも書きたくなるのか、どうしてそれをネットに公開するのか、自分なりに腑に落ちる答えが見つかったのだ。結論から言うと私にとって書くこととは祈りなのである。以前哲学は宗教と似ていると書いた。問うことは祈りなのだと。そしてこれも前に書いたが、残念ながら私は哲学教に入信できるほどの才能を持ち合わせていなかった。そんな私がついに見つけた祈る方法それが書くことだったのである。
誰でも祈りたい時がある
祈りとはつまり神に真実を告白することである。人は日常的に必ず嘘をつく。意識的無意識的に関わらず、常に真実体でいることはできない。そもそも人間である時点で誰しも〇〇という名前の人間「として」生きている。その時点でほとんど全てが嘘である。その「として」の脱ぎ方は人それぞれであるが、脱ぎたいと願う瞬間は誰にでもあるだろう。その時人は神に祈りを捧げるのだ。しかし、神とはなんでもできるからまさに神である。即ち神は人間自らから告白されずとて、その人の真実なんて既にお見通しなはずである。神に嘘が通用すると考えるのは傲慢というものであろう。だがそうだとしても人は祈りをあげ続ける。なぜなら人が祈りを捧げる神とは自分の中にある存在だからである。誰も「本当の神」がいるかを知ることはできない。この世界を創造した神は常にこの世界を超越しているからである。だからこそ人は自分の中の神に祈りをあげるのだ。自分の中にいるのに、自分より上位であると信じて。
ブログでなければならない理由
私にとって書くことが祈りであるのはもはや間違いない。しかしただ日記のように個人的に書き溜めるのではだめなのだ。なぜなら私の神とは第三人称の他者だからである。私は「誰でもない人間」にこそ告白したいのだ。特定の誰かではない人間という概念が私にとっての神なのである。不特定多数の誰でもない人間に向かって話したいからこそ必ずブログでなければならないのだ。「誰でもない人間」が私にとって神であるのは彼らは常にただそこにいるからである。神の本質とはそういうものだろう。
ただ祈り続ける
これからも私はここで「誰でもない人間」という名の神に対して語り続ける。自身の真実をここに書き続ける。私はそのことによってのみ救われる。祈りというのは何かの願い事をすることではない。祈るとはその行為の形式そのものを願うことなのである。祈りたいから祈るのであり、祈らなかった後悔をしないために祈るのだ。救われたいから祈るのではなく、祈るというそのことが救いなのである。