底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人は期待し期待されてこそ生きていける生き物である

他人と期待

人は絶えず他人に期待を寄せる。たとえ「○○してほしい」という明らかな願望の形でなくても、人はそもそも他人に「人である」ことを常に期待している。意志疎通ができる、最低限のマナーを守れるなどのことは、当人の意識を超えて、人として生まれた以上抱かざるを得ない期待なのである。いやむしろ、その期待に応えてくれる相手をこそ人は「他人」と呼ぶのである。

 

 

人であるってなんだろうね

「他人に期待するな」そういう文言を見かける度、私は上に書いたことを思う。他人と期待とは切り離せる概念ではないのだから、他人に期待しないなんてのは無理ゲーである。この言葉はこう補足されるべきなのだ。「他人に’’必要以上の’’期待をするな」と。他人に必要以上の期待をするな、そう言うなら私も大賛成である。ここでの必要とは「人である」以上の期待をするな、ということに他ならない。難しいのは「人である」の定義である。何をもってそれを人と呼ぶか。これは人類が生まれて以来、最大の難問といってもいい。

 

 

はじめに関係ありき

(人間にとって)全てのものは関係の中に意味を見出され、初めて存在する。それだけで独立して存在するというものは断じてないのである。椅子は人が座るその動作との関係で椅子という意味を持つのだし、宇宙は地球ではない場所という意味をもって宇宙なのである。つまり何かが存在するという時点で、人はそのものに期待せざるを得ないのだ。椅子には常に座れることを期待しているのだし、宇宙には常に地球にはない何かがあることを期待しているのである。

 

 

関係と期待

期待する、そのことは人間の根幹を担っているのだ。人は椅子にすら期待をするのだから、自分と同じような影形で、自分と同じように動いて生きている他人に期待をするな、なんてのは酷というものであろう。自分とはその他人に囲まれて生まれたからこそ自分なのであり、絶えず他人と関係するからこそ、自分を保っていられるのだ。他人と関係するとはもちろん、お互いに期待したり期待されたりすることである。

 

 

他人に期待してこそ自分の人生を生きられる

自分の人生の好転を他人に期待する、そういった期待は確かに過度の期待であるように思う。誰もが自分自身の人生を持っているのだから、自分の人生は他のだれでもない自分で生きるべきだろう。だがそれは他人に期待しないこととイコールなのではない。私が私の人生を生きるためには、そもそも他人は必要不可欠なのである。自分が他人の人生に「人として」登場すること、他人が自分の人生に「人として」登場することを期待し、そして実際に登場するからこそ、私は初めて自分の人生を生きられるのである。

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