底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

無になりたいと言いながら生きている

そう思うけど腑に落ちないことってあるよ

自分はそれなりに恵まれていると思う。日本という国に生まれ落ちたこと、愛を注いでくれる両親がいること、健康で丈夫な身体があること、自分のやりたいことができているこの環境、どう考えても運がいい方である。だがもし今誰かに「あなたは恵まれている」ときっぱり言われたら、私はきっとそれに素直に、はいと認めることができない。なぜなら、結局は心の底からそう感じているわけではないからである。




不幸だから悪いとは思わないけどね

「この世に生まれ落ちた時点で運が悪い」それが正直な気持ちである。別に私は反出生主義ではないけれど、この世以外が端的な無であるなら、有はやはりそれだけで不幸に思える。有があることはどこまでも変なのだ。世界なんかなくたってよかった、宇宙なんかなくたってよかった、地球も人類も、そして自分自身も、何もかも。「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」哲学における有名な議題の一つである。私もはっきりそう思う。明らかに何もない方が自然である。有である時点でその不自然を背負わなければならない。それは判然たる不幸ではないだろうか。




生きている方がよいと思うのは生きたことしかないから

生きている、それ自体は文字通り有難い(有るのが難しい)ことである。だからこそ時には奇跡のように扱われ、生きているというそれだけで喜ばしいのだと言われる。しかし、それは裏を返せば、生きているというそれだけで悲劇であるとも言えるのだ。人が生きている方がよいと思うのは、つまるところ生きたことしかないからであろう。生きたことしかないから無であったことがないから、生きている方がよいと思う、それは当たり前のことなのだけど、判断としてはやはりどこまでもエゴの範囲を出ず不正確である。少なくとも、死んでいること或いは生まれてこないことが、生きていることよりよいものであると、一度は仮定して考えてみるべきだ。




私のブログだからいいよね。うん、いいよ。

「無は無であるがゆえに、そんなものは無い。だから無と比べるなんてお門違いだ!」と言われてしまえば、この記事はそれまでである。反論は到底できないくらいにその言葉は正しいからだ。生まれてきたからこそ、生まれてこない方が良かったなんて戯言をほざけるのだし、まだ死んでいないからこそ、死ぬことの方がよいかもしれないなんてふざけた想定ができる。「無い方がよかった」は全て「有る」から言えるのであり、もし本当に無であったなら、最初から端的に無いだけである。だが、それでも私は言いたい。無い方がよかったのかもしれないこと、無いことの方が自然であること、だから有は変であり、その変さを自覚できてしまうのは不幸であること。なぜなら、それが私が人生に抱いている率直な思いだからである。

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