底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

正しさの四つの分類

四種類の正しさ

正しいということには四種類あると思う。一つ目は価値観的正しさ。〇〇したい、〇〇してほしいとか、〇〇したくない、〇〇されたくないなどの思いから生まれた「すべき」と「してはいけない」がそれである。生きていたいから生は保障されるべきだ、殺されたくないから殺してはいけない。この正しさが正しい所以は「私がそう思うから」でしかないのだが、個人の立場で言えば、それは最強の正しさと言える。なぜなら、自分でそう思えるならその正しさは絶対にひっくり返らないからである。二つ目は予想的正しさ。ある時点ではまだ何が正しいのかは分からなく、後の結果によって正解が判明する正しさである。賭け事の時の正しさがこれである。それ自体ではまだ意味を決められず、ある一定の期間をおいて後から結果と照らし合わせて、やっと正しさが生まれるのだ。要するに当たりとハズレである。三つ目は定義的正しさ。定義的にそうでしかありえず、定義によって正しさが決められているものである。三角形の辺は三つであるとか、既婚者は既に結婚している人のことを指すとがそうである。数学のイコールで結べるものというイメージで考えてもらえれば分かりやすいだろう。四つ目は事実的正しさ。文字通り事実と合致しているかが正しさの基準である。推理ものなどでよく言う「真実」がこれである。事実と一番辻褄が合うということが真実の意味である。




精一杯でござる

もちろん、もっと細かく見ればまだまだ分類できるだろうし、単に私の頭が足りなくて見落としている正しさもあるかもしれない。とりあえずの今私ができる精一杯の分類なので、この分け方が「正しい」かどうかの判断は読む人に任せたい。




なんかありきたりなことに今更気づいた感じ

ここからは少し正しさからそれた話題なのだけど、近頃の気づきとして、ある程度までいったら行動基準は正しさによっては決められない、ということが分かった。書くことで私は一時期というか、つい最近までというか、今でも悩むことがあるのだが、それは端的に正しさという基準が適用できないからなのだ。毎日書く「べき」なのか、そんなのものに正解なんてあるわけがなかった。だからどちらでもいいのだ。どちらでもいいからいつまでも悩むはめになるのだ。




神のみぞ知る

人生の正しさはたぶん、予想的正しさと価値観的正しさの混合であろう。「いい人生なのかどうかは死ぬ時にわかる」なんて言葉はもろ予想的正しさなのだし、そのいい人生の「いい」の基準は完全に価値観的正しさであろう。だが「いい人生」とは果たして「正しい人生」なのであろうか。そしてそれはどの基準の正しさで測られるべきなのだろう。

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