底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

あることをし続ける理由はわかりそうで永遠にわからない

したいからしているのではない

あることをなぜし続けるのか、その理由に「したいから」は正確な言葉ではない。少なくとも私にとってはそうである。このブログを書く理由の半分くらいは確かにしたいからで間違いないのだが、残りの半分はそうではない。あー書きたくないと思いながらも幾度となく執筆を行ってきたことがなによりの証拠である。それでも書くことをやめないのはなぜなのか、私にも全然わからない。今、思いつける最も近しい言葉は「やめられないから」であるが、それでは答えになっていないだろう。まさに「なぜ」やめられないのか、と聞かれているのだから。しかし、正直なところ本当に「さぁなんでだろう」としか言いようがない。




書いていなかった時の自分ってどんなだっけ

実際、今まで書かずに二十四年と九ヶ月あまりを生きてきた。いや、少し嘘である。以前には別のブログを書いていたこともあるが、その時は端的に挫折した。まぁともかく、今までの人生のほとんどが書かない時間で満ちていたのは事実である。それがなぜか、このブログを始めてから、書かない人生に戻ることが全く想像できなくなった。それどころか、書いていなかった時の自分がどんなだったのかさえほとんど覚えていない。




目的がない方が続く

以前のブログが挫折し、このブログが未だに続いている、その違いの理由ならはっきりと分かる。それは目的の有無である。以前のブログには明確な目的があった。だが書いているうちに、その目的を達成するのはどうも自分には無理らしいと悟ってしまったので、道半ばにして投げ捨てたのである。このブログにはそれがない。まさに何のために書いているのか、自分にもよく分からない。だからこそ逆に続いているのだろうと思う。




なぜかでしかないと知りつつなぜかと問う

冒頭に戻ろう。あることをすることの理由は一つではないと私は考える。そして数多ある理由は複雑に絡み合うので、もはやなぜなのかは到底わからず、ただやり続けているという事実だけがそこに残る。「なぜか」やり続けている、それが真実であるように思う。しかし、「なぜか」なんてことは当然ながら、納得をもたらさない。「そうか、私はなぜかそのことをやり続けているのか」と考えて、納得できる人は既に悟りを開いているか、単に思考停止したかのどちらかであろう。普通は「なぜか」でしかないと知りながら、それでも「なぜか」と問うてしまうものである。あーでもないこーでもないと理由を推測しては、しっくりこずにまた違う理由を探してあてがってみる。その繰り返しを死ぬまでやり続けるしか道がないのだ。端的な答えを出す、「なぜか」でしかないのだから考えるのをやめる。そのどちらも悟りを開けない凡人にとっては欺瞞を含んだ不正解であるように思う。

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