底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

死についての記事が続いております

死ぬことは分かるのに、死ぬとはどういうことなのかはさっぱり分からない

死ぬことの何が怖いのだろうか。私的にそれは死が完全な無であることによっている。無の想像できなさがひどく恐ろしい。無は無である故に無い。だから当然想像できっこない。私は自分が死ぬということが、どういうことであるのか全くもって分からないのである。自分の死とは如何なることかと想像してしまえば、そこには想像している自分が存在していることになる。だから、生きている限りにおいて自分の死の実態はつかめず、実際に死んでみる他ないのだ。私は自分が死ぬことをそれ以上ないくらいに自覚しているにも関わらず、死ぬとはどういうことか皆目見当をつけることもできないのである。




死は謎である

近頃、随分死ぬことについて書いている気がする。まぁそれでもいいか。やはり、私にとって死以上に考えるべきものなどないのだろう。ともあれ生まれて、ともあれ生きて、ともあれ死ななければならないこの人生とは何なのか。それを考えずして他に何を考えるというのか。既に生まれ既に生きているのだから、残るは死だけである。死とは何か、それを解き明かした人は未だかつて存在しない。そして、これからも永劫現れることはないだろう。解き明かすのは常に死んだことのない生きている人間なのだから。




生きている限り死を欲することはできない

死にたい、死にたくない、死んでみたい、死んで楽になりたい。死に関する願望は実に様々である。だが、どんなに言葉を並べたところで、その主語は生きている自分で、まだ死んだことのない自分である。その一点によって、それらは死に対する願望ではなく、生に対する願望に属することになる。知らないものを欲することはできないからである。このブログでも散々死んで無になりたいと言い続けてきたが、それもつまるところは「死んで無になった自分になりたい」という意味になってしまう。私はその意味で言っているつもりはないのだが、生きているこの形式から逃れる術はないので致し方なし。しかし無になった自分などと考えてみるとなんだか笑いが込み上げてくる。それは一体なんぞ。無は無であるが故に無いと、冒頭で書いたばかりだというのに。




自分だけが死ぬということが怖い

死ぬことが怖い。結局それは「自分だけがいなくなる」ということが怖いのかもしれない。人は知っている。自分が死んだ後にも世界の方は存在しているのだということ。その世界の中から自分だけがいなくなること。自分がいなくなった後の世界の様子を少しも垣間見られないこと。そして、いくらが時が経とうと、何億年何兆年過ぎようと、自分が存在することはもう二度とないのだということ。それら全てを知っているからこそ、死は恐ろしいものになり得よう。

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