底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

他人に信じられてこそ真実は世界に残り得る

「本当」を決めるもの

よっぽど演技が下手な人でない限り、その人の「痛い」と「痛いふり」は見分けることができない。だいたいの人はそういった私秘性を持っている。本当か嘘かは本人のみぞ知るもので、他人はそれが本当なのか嘘なのかを出来事の前後の脈略や、その人の普段の振る舞いなどから判断するしかない。他人には絶対にその真実を知りえず、信じるか否かしか選択肢がないこの領域こそが個人を個人たらしめている。しかし、同時にそれは無限大の孤独をも個人にもたらす。なぜなら、他人の判断でその真偽の全てが決まってしまうからである。もはや「実際に」痛いかどうかなんてことはどうでもいいのだ。他人に信じてさえもらえれば、それは「本当に痛い」ことになるのだし、逆に信じてもらえないだけで、それは「痛いふり」をしていることになるのだから。どんなに激しい痛みを感じていても他人に信じて貰えなければ、その真実は世界に残ることができないのである。




精神的な痛みは証拠がない

身体的な痛みなら、まだ身体がその痛みの証拠になり得る。傷ができたり骨折したりなどすれば、誰だってそれが実際に痛いのだと信じるだろう。それは自分がそうなれば実際に痛いのだと知っているからである。自分が痛いから他人のそれも信じる。信じることによって自分も信じて貰える。これはある種の取引である。もっとも取引が当たり前になりすぎて、もう他人の傷にも「端的な痛み」が付帯しているように感じることが普通になっている。他人の傷口を見ただけで顔を顰めてしまう人もいるくらいである。しかし精神の痛みにはそのような自他に共通する傷跡は視認できない。脳の中身などを調べれば或いはそういった証拠が出てくるかもしれないが、少なくとも日常の中で確認することは不可能である。そのため、演技の上手い人であれば完璧にそのふりができる。それが「本当の痛み」であるかは、もはや完全に人の信仰心に委ねられるのだ。




「ふり」と「隠蔽」

嘘を真実に変える「ふり」ができるということは、当然その反対の真実を嘘に変える「隠蔽」も人には容易い。実際に痛いのにその痛みをさもなかったかのように振る舞ったりすることは、ほとんどの人がする経験であろう。親しい人の言葉に心がズキッとしたけれど、その悪意のなさに観念して平然なさまを装う。その方が関係を円滑にし、両者にメリットがあると分かっているから。もちろん、これはお互い様である。




生きるも死ぬも他人次第

個人の尊厳とは絶えず他人の信仰心によって成り立っている。「私には分からないが、あなたは端的に痛みを感じているのね」と他人に信じられてこそ、私の痛みは個人の真実から公共の事実になり得る。そのため現実において他人に信じて貰えるように行為することは極めて大事なことと言える。でなければ、どんなに「本当の痛み」を抱えていようとも、その真実は抹殺されてしまうのである。

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