底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分を形容できる言葉は存在しない

世界で一番謎なこと

世界で一番謎なのは自分を置いて他にない。自分以外のものは「本当に存在しているか?」というところから疑えるが、自分に対してはそれをすることができない。「存在しない」と結論を出したところで、その結論を出すのは必ず自分自身なのだから、存在していることは他のものと比べて遥かに自明なのである。そうであるにも関わらず、その存在形式、即ち「どのように存在しているか」と問おうとすると、まるで実態を掴めない。自分について分かっていることは「ともあれ存在している」以外には、何もないのだ。

 

 

自分は形容できない

この謎の深さを侮ってはいけない。日常では簡単に、イコールで結べる意味で「私は〇〇」なんて言ったりするが、そう発言できるほど、人は自分のことを理解していない。「私は〇〇」と言う時、その「〇〇」とイコールとされているところの「私」とは一体なんだろうか。それは少なくとも言葉で言い表せるあれやそれではない。まさにどんな言葉にも言い換えられないからこそ、それは大きな謎なのである。逆に言えば、人が「私は〇〇」という時、それは常に何かの言葉が省略されているのであり、自分を言い表しているわけではない。例えば「私は人見知りだ」と言う時、それは本当は「私は人見知りのような行動を度々する」のような意味しか持っていない。言われてみれば当たり前なことなのだが、しかし省略に慣れすぎると、その「〇〇」が自分とイコールであるかのような錯覚に、易々と陥ってしまうのである。どんな言葉を持ってきても、それはせいぜい自分の一つの属性に過ぎない。如何なる言葉も自分の上に立ち、自分を直接に形容するなんてことはできないのだ。

 

 

最も変な存在

何度も書いたことであるけれど、自分とは何十年前には世界に存在していなかったのだし、何十年後には必ず消える極めて奇異な存在なのである。自分が存在する前も、存在した後も世界はただ淡々と回り続ける。人類という存在は何万年前からあり、そしてこれからもしばらくは続けて存在するだろう。本来は端的にそれだけで良かった。しかしなぜかその中のひとつが「私」であった。これは他に類をみない変なことである。その「私」をこの世にある言葉で言い表せるはずなどないのだ。だって「私」が存在する以前にもこの世はあったのだから。

 

 

日常と並行的にある

日常で自分のことを形容したり断定したりすることはもはや避けられる事態ではない。他人と生活する上で人は常に自覚を求められ、自分がどういう人であるかと尋ねられる。その返答は確かに用意すべきであるが、しかしどんな言葉を持ってきても真に自分を言い表せてはいないことも忘れ去られるべきではない。「私」はいついかなる時も、ここに大きな謎として存在しているのだから。

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