底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

第二人称がいつまでも分からない

眠いので章のタイトルはテキトーです

第二人称。つまり特定の名前をもって私の人生に登場する人々。昔から今に至るまで、私はその人たちが苦手である。それについての記事は何本か書いたことがあるが、その理由を一言でまとめるなら、要するにどう接したらいいのか常に迷わなければならないことが私にとってはひどく苦痛なのだ。テキトーに関わることには罪悪感を覚えるけれど、だからと言って、自分のことと同じくらい真面目に向き合う義理もない。常に板挟みのこの状態にずっと打開策を見いだせずにいるのである。

 

 

1

それでも近頃少しずつ分かるようになってきた。打開策については、正直具体的な案はまだまだないのだけど、なんというか整理がついてきたのである。ひとつの気づきとしては、そこには正解がないのだ。どう接したら「いい」のか、の「いい」の基準はこの場合、そのほとんどが「したい」に依存している。だから後は好みの問題なのであって、どう接したいかで決めるしかないのである。しかし私にはその他人に対する「したい」がないので、これはまぁ結局なんの解決にもなっていない。

 

 

2

他者に対して、私が抱く欲求は「人であって欲しい」ということだけである。それ以外で他者にして欲しいことは何もない!そうキッパリ断言すれば、それは嘘になるが、人であって欲しい以外の欲求には切実さがないのである。絶対に叶えて欲しいという程の熱量ではないのだ。「できるなら」その枕詞付きで、やって貰えれば助かるな〜くらいのニュアンスしかないものがほとんどなのである。

 

 

3

第二人称との繋がりは、全て情によっているのだと思う。愛情しかり友情しかり、特定の人との繋がりには情がかかせないのではないだろうか。ここでの情の意味とは、なぜかは分からないがその人と繋がっている状態のことである。繋がっていたいから繋がっているというのではない。なぜだか繋がっていることが当たり前なのであり、繋がっていないことが端的に想像できないような、そんな関係のことである。

 

 

4

そんな情を持ってしまうからこそ、私は第二人称がなんとも苦手である。繋がっていることの理由が分からないのに、断ち切る想像もうまくできない。繋がっていることはもはや前提であり、その上で「より良い関係のためには?」と常に関係の方から問いかけられる。なぜそんなことを考えねばならないのだ、と思うこともしばしばであるが、繋がりを断ち切れない以上、問が止むことはない。結局私は今でも、第二人称のしがらみに足を絡めとられたままである。

f:id:kabiru8731:20211205013550j:image