底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

学問と日常は相容れない

哲学は細部に宿る

哲学における細部ってものすごく大事なのだと思う。少し違うということが、そこでは全く違うということであり、少し意味を取り違えれば、それは全く別の問題について論じていることになる。曲がりなりにも哲学をかじってきた私が肌で感じることである。大まかにだいたい分かればいい、なんてことを哲学は決して許してくれない。細部を取り逃すものに、哲学する資格無し。どの哲学書からも、そんな雰囲気がヒシヒシと伝わってくるのである。

 

 

日常と学問における細部の意味

イメージ的に「だいたい分かった」ということは、「およそ八割分かった」に近いのではないだろうか。つまり、本質を左右しない残り二割の細かいことはともあれ、それ以外は理解したと思った時、人は「だいたい分かった」と口にするのであろう。なんとなく掴めた、大筋は分かった。その言葉たちが日常で使われるなら、大した影響はないのだろう。日常における細部とは本当に細部の意味なのだから。逆に言えば、日常とは常にそういった輪郭のハッキリしていない「大まかさ」に支えられてこそ、成立するのものである。日常から大まかさを取ってしまえば、人は一日たりとも普通の生活を送れなくなるだろう。しかし哲学に舞台を移すと、話はやはり一変する。他の学問にも共通することであるように思うが、そもそも細部をつめることが、そこにおいてのやるべきことだからである。この界隈における、ものの判断基準とは「正しいか正しくないか」の二択のみであり、「だいたい」や「大まか」なんてグレーゾーンは絶対に受け入れて貰えないのである。

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学問は日常の役に立たない

そういう意味で、日常と学問とは完璧に相容れない存在である。学問は生活の役に立つかという問を時たま見かけることがあるが、私的な答えとしては、役に立つことは有り得ない。なぜなら、世界の成立原理を問うことこそが学問の役割であり、日常はその原理成立以後にあるものだからである。世界の謎が全て解けた!これが世界の謎の答えだ!というゴールを迎えられるのなら、或いは役立つ可能性もあるが、その可能性は残念ながら永遠に可能性としてしか存在できないであろう。まだつめられていない細部はこれからも無限に現れ続ける。

 

 

線引き大事

日常は細部を蔑ろにすることで存在し、学問はまさにその細部をこそ研究している。細部は学問の中では滅法大事だが、日常では取るに足らない存在である。日常と学問の二足の草鞋を履くのなら、その線引きを忘れてはいけないと思う。それがせめてもの、学問と日常に対する尊敬の形というものであろう。

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