底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

よいからよいのであり他のものと比べてよいのではない

非評価という存在

何かを「よい」と評価することは、他のものを「よくない」と評価したことになるだろうか。そんなことはないであろう。抽象度を下げた面白いなどの場合で考えてみれば分かりやすい。何かを面白いと評価することは、明らかに他のものを面白くないと評価することではない。ただ偶然に「その」面白いものが目の前にあったから言及したに過ぎず、他のものは「まだ評価するに至っていない」だけである。確かに他のものを面白いとは言わなかったが、面白くないとも言っていないのである。評価の反対にあるものは常に「非」評価であって、「否」評価ではないのだ。




評価は内的実感に従っている

あるものを面白いと評価する時、それはあるものと別のものを比べて言っているのではなく、自分の内から湧き上がる「おもしれぇ!!」という実感に従っているはずである。他のものと比べて面白いなんて消去法的に面白さを決めるのは、全く関心のないものを見る時くらいであろう。普通はただ面白いと感じたものを面白いと評価する。感じることは感じることであるが故に、そこに理由は存在しない。だから、評価というのはほとんどの場合、他のものと比べられておらず、端的に自身の内感によって、そのものだけに為されているのである。




感想は他人からみれば評価

しかし、自分にとってみればただ感じたことを述べただけでも、他人には往々にしてそれを(他のものと比べた)評価と捉えられてしまう。なぜなら、他人は「それ」を直に感じていないからである。他人からは、私が「独自に」「自分の意志によって」その評価をしているように見えるのだ。自分の意志によって評価が為されるのなら、他のものとの比較は必要である。いくつかある選択肢の中から何かしらの基準で「よいもの」を選ぶことが意志という言葉の意味だからである。なぜ他のものを選ばなかったのか、なぜそれだけを「面白い」と評価したのか、そこに説明が要求されるのだ。




他のものは知らんけどこの記事はまぁまぁのでき

現実において、意志によって評価を下している人は滅多にいないだろう。ほとんどの人は、面白いと感じたから面白いと言い、美味しいと感じたから美味しいと口にしているはずである。だから、その評価はある一つものだけに焦点を当てているのだ。他のものは知らんが、とにかくこれは面白い。他のものは知らんが、とにかくこれは美味しい。それが日常における評価の意味である。あるものをよいと評価したとて、それは端的にそのものだけに対する言及であって、他のものは一切関係ないのである。他のものと比べてよいのではなく、ただよいからよいのだ!

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