底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

中身の年齢は自分次第

年齢ってなんだろね

年齢というものは極めて特殊な人間の側面であるように思う。なぜなら、それは変わるからである。しかもみんな一緒に同じ向きに同じ速さで変わっていくのである。こんな現象、年齢以外では見られないだろう。性別や人種や出身地などは、ずっと同じものと一生付き合っていくことがほぼほぼ決まっているアイデンティティであるけれど、年齢だけは順次変わっていくのだ。時間という圧倒的客観に支えられて、生きている限り誰しも毎年着実に一つずつ数字を増やしていくのである。




私のブログなので、多少の自惚れはどうか見逃してください

改めて書くが、私は今年二十五歳である。それはつまり、去年は二十四歳だったということであり、来年には二十六歳になるということである。悲しいことに、二十五歳の私は一年間の寿命しか持っていない。たったの一年で二十五歳に取って代わり、二十六歳が私のアイデンティティの座につくことになるのだ。なんて短いのだろう。身体の衰え的な意味の歳をとっていくことには、今のところそれほどの恐怖や悲哀は感じないが、一年一年自分のアイデンティティだったものたちが、順々に消失していくことには、たまらなく寂しさと虚しさを覚える。自分大好き人間の私としては、どの年の自分も愛おしく名残惜しいものだからである。




中身の年齢って?

ところで年齢が変わること、歳をとっていくことで、一体自分の何が変わっているのだろう。見た目は言わずもがな。昔と比べて顔つきはいわゆる大人になり、背丈も随分伸びた、それに最近こじわも......。これらは間違いなく年齢による変化なのだと分かる。なぜなら、みんなそのように変わっているからである。誰しも最初は小さく子供で、やがて大きくなり、そしてしわしわに老いていく。生きている限りそこに例外はない。だからこそ、私は自分の見た目に起きているそれらの変化が、年齢によるものなのだと気づくことができる。しかし、中身や精神などの場合はどうだろう。中身は最初から人それぞれで大きく違う。それに様々出会いや経験によっても変わり得るだろう。そうした中で年齢による変化、つまりは「誰もがその歳になるとそうなる」とはっきり言えるようなものなど、本当にあるのだろうか(反語)。




中身の年齢は自分で決めるもの

数字的に見れば誰しも同じように一年毎に数字が一つ大きくなっていくだけであり、見ため的に言えば誰しも同じようにしわくちゃに老いていくだけである。だが、中身や精神の歳のとり方は、人の数だけ形が存在しているのではないだろうか。だから、何をもって成熟とするのか、何をもって歳をとったとするのか、それは自分だけに決められることなんじゃないか?

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