底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

正当性のある怒りは存在するか

正当性のある怒りは存在するか

正当性のある怒りというのは存在するだろうか。相手に何かを伝えるために怒りを使うのが正しい、怒りを使う他ない、そんな場面って本当にあるのだろうか。別に人類全員きちっと根気強く話せば分かり合えるなんてことは思っちゃいないが、怒りという手段に対してはかなり懐疑的である。怒ってしまうというのは分かる。人間なのだし、感情的になるのは避けられることではない。建前上怒らなきゃいけないというのも理解する。だが、相手に対して有効的で正当性のある手段としての怒りは果たしてありえるのか。




共同体のルールは人々の生活を守り円滑にする以上の意味なんかない、そうすること自体なぜ正しいのかという問には答えてくれない

大人が子供に何かを教える。特に「~してはいけない」というようなことを教える時、親や教師の立場の人が怒る。現実でもドラマでもよく目にする場景である。この怒りはなんだか尤もらしいような気がする。いけないことを教えるのに優しい口調では、そのいけなさが伝わない。だから、それが如何に重大なことかを知らせるために怒る。実に筋が通っている。だが、この「いけない」とはそもそもなんであろうか。それはつまるところ、私たちの国や共同体においてのルールだろう。だから「いけない」の主語は「その子供」ではなく「我々」である。「いけない」の正体とは、せいぜい「我々の共同体ではいけないとされている」に過ぎない。それを絶対的なものとして肌感で恐怖をもって覚えさせるのが大人の仕事というなら、怒りは確かに正しいと言えるだろうが、本当にその必要があるのか疑問に思うところである。




恩知らずかな

私がたいそう捻くれているからなのかもしれないが、少なくとも私自身「あーあの時怒ってもらえて良かったな」と思えた記憶が全くない。小さい時何かをして怒られたら、次からは影でバレないようにしていたし、怒られたから反省しようもうやめようなんて思ったことも一度たりともない。「叱ってくれる人がいるのは貴重だよ」という言葉を耳にすることもあるが、大人になった今でも私的にはあまり実感がない。誰かに怒られたから今の自分があるとは、全然思えないのだ。




静かな怒りは好きです

感情的で大きな声で怒鳴りつけるような怒りに正当性を感じたことはないが、理知的に何かの文章や作品に落とし込まれた怒りには手段としての正しさを感じる。「世界はこうあるべきだ、君もそう思わない?」そういう呼びかけの声を閉じ込めたような静かな怒りがある創作は本当に大好きだし、素直にその人の話に耳を傾けたくもなる。直接的な怒りは「君は間違っている」ということを強調しているのに対して、間接的な怒りは「私は正しい」を強く証明しようとしている。その方がずっと素敵じゃないかしら。だって自分が自分のある行動が間違っているかどうかは、究極のところでは自分にしか決めることができないのだから。

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