底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分を慰めるためのストーリー

ストーリーの存在意義

「あの世に行った人でこちらに帰ってきた人は一人もいないでしょ、だからあちらはきっとすごくいい場所なのよ、そう思わないと老い先短い人生やってられないわ。」喫茶店で隣に座っていたおばあちゃんの声が耳に入ってきた。あぁすごくいいなと思った。そういう解釈をする視点が私にはまるきり欠落している。自分を慰めるためだけに作られた、真実ではないストーリーに何の意味があろうか。ずっとそんな風に考えてきたけれど、まさに「自分を慰める」という意味を持っているではないか。ストーリーとはそのためにこそあるのかもしれない。

 

 

嘘の体を保って

死んだらどうなるのか、実際には分からない。私は無になる(なってほしい)と思って生きているが、それには確かな根拠はない。あくまで常識的に考えたらそうだろうという程度の推論にすぎない。だから先にはおばあちゃんの話を真実ではないなどと書いたが、本当のところは誰にも知り得ない。本当は知り得ないので、態度を保留すべきだ。正しい行いとはそのようなものだろうと思う。しかし、空想ならスペースは残されているであろう。空想つまり嘘という体を保つなら、そこに正しいもクソもありはしないのだから、どのように解釈するかは完全に個人の自由である。おばあちゃんだってきっとそれが真実だなんてことは思っていない。ただ残りの人生をよいものにするために、死ぬことを楽しみにするために、自分への慰めとしてそう言っただけなのだろう。嘘と知りながらそれでもあえて自分に向かって語りかける。一見この全く無駄に思える行為には、大きな慰めの力がある。真実は知り得ないから、事実は変えられないから、せめて口先だけでも。切実な願いの究極の形ではないだろうか。たとえ嘘を使ってでもその願いに応えてあげる。愛のある素敵な行為だろう。

 

 

前を向くために

嘘のよさはここにあるのだと思う。それは真実にも事実にもないよさである。人生、目を背けたいこと、向き合えないこと、怖くて仕方ないこと、実にたくさんある。それらに淀みなく真っすぐ向かっていけるのは少年漫画の主人公くらいだろう。普通はそんな風には振舞えない。そんな風には振舞えないからストーリーを作り自分を労って慰める。実に人間らしい。嘘だなんてことは言われなくてもわかっている。でもそうする他にどうしようもない。そうしなかったら心がもたない。そうしなかったら何のために生きているのか分からない。だから嘘をつく。少しでも前を向くために。自分の人生を生き切るために。

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