底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

出会いを大切にすることは不公平だが人にはそれしか道がない

出会いは不公平

出会いというのは誠に不公平である。それは完全な偶然によっているのに、人は時に自分と出会ったからというその理由だけであるものを大切にする。他の同じようなものとの違いはその偶然が起きたか否かであるだけにも関わらず自分と出会った方を贔屓する。それは世界や人間の構造上仕方のないことなのだけど、やはり端的に不公平である。自分が何かをそうして大切にする時には、その不公平が存在していることを忘れてはいけないと思う。そこには如何なる正義もなく、ただそうせざるを得ないからそうしているのだという自覚をきちんと持っておきたい。




与える側の鈍感

出会ったものに助けられる場合には人は割かし敏感である。そこに胡坐をかいて我が物顔で居座っている人はいないとは言わないが極めて少ない。「有難い」と普通は思う。電車で席を譲れば大抵の人はお礼を言ってくれるはずだ。少なくとも私の経験上はそうである。でも自分が与える側になると人は一気に鈍感になる。電車で席を譲ってお礼を言われた日には、きっと「いいことしたな」としか思わないだろう。「席を譲ってしまった、不公平な行為をした」なんて思う人がいるとはとても考えにくい。その裏で何人の人が席を譲られずに辛い思いをしたか、なんてことは譲った本人とは関係ないと思う人が多数なのである。もちろんそれは世の中的にとても健全なことだ。いちいちそんな考えをしていたら、助けられたはずの人まで助けられなくなってしまうのだから。




出会いを必然と見ることもできる

出会いはある意味では必然でもある。人生の一回性から考えれば、私の人生に起こることの全ては偶然という必然に他ならない。その意味では出会ったものだけを贔屓することは贔屓ではなくなり、全てをを大切にしていることになる。そう捉える場合には、出会いは人生そのものの枠組みとなり、出会っていないものは即ち「ない」のだと言うことができる。




結局道は一つ

だが足元を見れば再び、私がこの人であることが純粋な偶然であるという事実に気がつく。必然であることの全てはその偶然から始まっているに過ぎないのだから、全てを偶然とする視点は全てを必然とする視点と共に依然存在しているのである。偶然の視点から見れば出会いを大切にすることはやはり罪となる。出会いまでは完全な偶然で仕方ないとしても、人にはその出会いに対する態度を決められるはずなのだから、エゴの域を出ない良心で目の前にあるものだけを大切にするのは正しいとは言えない。しかし人はきっとそのようにしか生きていけないのだと思う。罪であったとしても、出会えないものにはどうしたって出会うことはできない。だから、その罪滅ぼしをするにしても出会ったもの全てをできるだけ大切にしていく方向にしか道は残されていないのである。