底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

常に今ある世界が最も正しい

おかしいのは自分の認識

何かおかしい、こんなことありえない、そう感じた時には自分の認識を改める。なぜなら、そのおかしいと思うこと、ありえないと思うことが現に起きているわけだから、「こんなこと起きるはずがない」という自分の前提が間違っていた以外には答えなどないのである。世界はいつもただあるだけ。人間にとって都合の良いあり方はあっても、世界の方に正しいあり方は存在しない。逆に言えば常に今ある世界が最も正しいのだ。そのあり方をおかしいと思うのは、自分が何かを勘違いしていたり見落としたりしているからであり、如何なる場合でも世界の方がおかしいという事態は起こり得ないのである。




許せないと思うことと正しく認識することを共存させる

人も世界の一部なので他人に対しても同じことが言える。他人をおかしいと思う時は、自分がその人に関する認識を誤っていただけであり、その人自身がおかしいということにはならない。自分の持っている常識から外れているのなら、それは自分の常識の方が偏っていたのである。もちろんだからと言って、許されない行為はある。でもその許されないの意味は所詮自分や社会にとって都合が悪いというだけに過ぎない。その人は単に世界の一部として生まれ今までを生きてきただけなのだ。人として何かを許せないと思えるのはとても大事なことである。それによって人は自分自身に誇りを持てたり、周りの人を助けたりできるのだから。しかし、その許せないことが現に起きているのだという事実を見つめるのも同様に大事なことである。許せない、それをする人がおかしいのだと一蹴してしまうだけでは事態は何も改善されない。どんなに相手が悪くても、世界の方が自分のためにそれを取り除いてくれるなんてことはないのである。




正しさは変わる(かもしれない)

自分の認識を改めることは今までの自分を否定することではない。世界は不変のものではないのだから、その変化に合わせて自分も変わっていくのがむしろ生き物としての自然である。変わらない正しさもあれば変わる正しさもある。一度正しいと思ったことでもそれが間違いになる時が来るかもしれないし逆に来ないかもしれない。それはそうなってみないと誰にも分からない。だから今信じている正しさに対しても一歩引いた目線で、「今のところ」という鍵括弧をつけておく。慣れ親しんだ正しさがひっくり返るのに抵抗を感じるのは仕方ないことだが、だからと言っていつまでもそれに縋っていても間違いが正しくなるということはない。世界にも人にも今の常識から考えればおかしいと思うようなこと、ありえないと思うような部分が、きっとまだまだ沢山残されているのである。