否定の矛盾
否定という概念の矛盾について考える。何かを「そうではない」と言うためには、まずその何かが「現状どうであるのか」について知っていなければならない。しかし知ってしまった時点で、それはその存在を肯定することになりはしないだろうか。そのものに積極的に賛同していくような肯定ではないにしても、最低でもその存在が存在することは絶対に認めているであろう。もしそうでないのなら、そもそも「何を」否定しようとしていたのか分からなくなってしまうのだから、否定するということには必ず「その存在が存在することの肯定」が前提として含まれているのである。
排斥したいものに否定は悪手
つまり、もし「何かは実は存在していない」や「何かは存在するべきではない」などと、その根底からある存在を否定したいような場合には、そもそもそのことに触れないのが最も正しい手段だと言えるのである。どんなに正しく強く否定しようとも、否定という行為の定義によってそれに触れた時点で存在は認められてしまうのだから、排斥しようとしているものに否定を使うのは極めて悪手である。
身を任せて否定に走ってもいいことはない
だが自分から触れなくとも、受動的に自分の意識に侵入してくるようなものもあるだろう。その存在を認められない自分としては当然そのことを快く思えない。だからついつい否定する形でそれを追い出そうとする。ところがこれはもちろん逆効果だ。否定すればするほど、その存在は強く自分の脳裏に焼き付けられ、どんどん剥がすのが困難になっていくだけである。受動的なものに対してもやはり触れないのが最適なのだ。侵入されたことによる一時の不快感に身を任せ感情的に否定に走っても、後々困るのは自分自身である。侵入までは完全な受動で仕方ないとしても、それに対する態度は自分で決められるのだから、否定するという行為によって増幅した分の不快感は自業自得と言わざるを得ない。
本来の否定は良い奴
否定はある存在が存在することには肯定的であるのだから、正しい使い所とは「存在そのものはよいが、内容的にもっとここを改善してほしい」のような時である。つまり否定は建設的に、その物事にもっとよりよくなって欲しいと願う時にこそ使われるべきものなのだ。世の中は否定という言葉のネガティブな部分に焦点を当てすぎである。人格否定などがその筆頭であるが、それは人格に否定を向けるのが間違っているのであって、否定そのものが悪いのではない。人格は一人の人が存在するというそのことであり、誰しも他人のために存在してるのではないからこそ、そこでは否定は悪になるだけで、使い方を守られた本来の否定はとても良い奴なのである。