底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

上手にできなくともできる

二種類のできない

「できない」という言葉は大雑把に分けると二通りの意味がある。物理的にどう足掻いてもできないことと、熟練度やセンスがないために上手にできないことである。前者が本当の意味のできないで、後者は一応できるけれども、これをできるとするのはなんだか烏滸がましい、上手にできる人に失礼だという慎みからできないと称するようになったのだろう。誰でも紙とペンさえあれば、下手くそであるにしろ絵は描ける。できないのではなくて上手にできないだけである。

 

 

生活の中はほとんどが上手にできないこと

どう足掻いてもできないことは意外に生活の中にないものである。なぜかといえば、そんなにできないものはそもそもやってみたくもならないからだ。何か一つそのような例を挙げようと今考えているのだけど一向に思いつかない。きっとそのくらい馴染みがないものなのだろう(頭が足りないだけ)。どう足掻いてもできないことは、最初から生活の範囲内にはなく、範囲内にあるほとんどが、上手にできない方のできないである。多くのことはそもそもやったことがないために「できない」とされているのだ。だがそれらは実の所ただ単に上手にできないというだけであろう。上手にできなくともやれる余地は残されている、そう知っておくのは結構大事なんじゃないかと思う。上手にできなくともやらなければならない時は必ず人生に訪れる、その時にただできないと簡単に絶望して道を閉ざしてしまわないためである。

 

 

下手くそなりにやっている

私は文章を書いている。とっても下手くそな文章をかれこれ三百強記事にしてここに上げてきた。私は端的に文章が「書けない」人である。取り扱っている内容は自分的に悪くないと思うのだが、私の文章の下手さがそれの魅力を殺しているといつも感じている。もっと導入が上手ければ、もっと良い言い回しが思いつけたら、もっとオチが秀逸なものであったなら。そんなタラレバ話をついつい頭に浮かべてしまうくらいには、やはり端的にド下手くそである。しかしそれでも私は文章を書いている。

 

 

一年未満はまだ「最初」に含めたい…

何かをすることは上手い人だけの特権だ。上手い人だけが他人からの賞賛を経て正当にある事が「できる」との自称が許される。当たり前だ。下手くそなものを「できる」と言われたって誰の得にもならない。でもだからと言って下手くそな人はそれが「できない」ということにはならない。ただある程度の逆風に吹かれるだけである。逆風に吹かれながらもそれをしたいと思えば、する自由は常に誰にでも与えられている。ただ下手くそであるが故にハードモードで、他人からも歓迎されない可能性が高いが、しかしいつだって自分にはそれをすることが「できる」のである。最初は誰だって下手くそだ。結局、下手くそでもなんでもするという意味のできるを重ねることでしか、上手な意味でのできるに向かっていく道はないのである。

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