底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

世界も自分も大事にしたい(激難)

人は矛盾している

世界も自分も大事にする。それだけの事が人間には叶えられない。なぜなら自意識がある人間にとって、世界の中の自分は半分でしかないからである。宇宙があり地球があり様々な動植物がいて、人間がいる。自分はその中のひとりだ。これが本来の正しい世界像であるはずなのに、人間にはそこにプラスして、「その全てを認識する自分」が余計に存在している。世界の全てを認識するものは定義により、世界の中には入れない。人間は半分世界の中にいながら、その実もう半分は世界からはみ出している酷く矛盾した存在なのである。

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世界とは「別」

世界の全てを認識するものは世界の中にはいないので、当然世界とは「別の」存在である。世界の中のちっぽけなひとりとしてある時には、自分は世界の一部なので、自分を大事にすることが即ち世界の一部を大事にすることであったが、全てを認識する世界からはみ出た自分の側から見れば、それは全く別々の話である。こちらからでは、自分を大事にすることはただ単に自分を大事にするということであるし、世界を大事にすることもただ単に世界を大事にするということに過ぎない。だから当然片方が大事にされない事態が発生するし、時には片方を大事にするためにもう片方が犠牲になることさえ平気で起こり得るだろう。

 

 

人生はクソゲー

世界を犠牲にして自分を大事にする。自分を犠牲にして世界を大事にする。そんなクソみたいな二択しか選べない時が人生には往々にしてある。世界も自分も両方大事にしたいという私的な思いから言えば、どちらも正しくないので、却ってどちらをすべきかなのか死ぬほど悩むことになる。両方大事に出来たらと考えるのだけど、現実はそう甘くない。どちらかを選びなさいとやはり突きつけられる。

 

 

自分を大事にする罪悪感

世界の中のちっぽけなひとりとしても存在しているのだから、自分を大事にすればいい、それが結局は世界を大事にすることでもあると、このブログでは何度か書いてきた。私はこれを現実的な正しさだと信じているが、しかしいざ自分がその二択を選ぶ立場になると、やはり大いに悩んでしまう。どうしても自分を大事にすることには罪悪感が伴うからである。こんなどうしようもない自分を大事にしてどうなる。それは単に自分を大事にしたいというただのエゴではないのか。自己犠牲したくない自分を正当化しているだけだろう。そんな声に必ず苛まれるのである。そして、本当にそうなのかもしれない。だって全てを認識する側の自分としては、それは本当にただ自分を大事にしているだけである。世界も自分も大事にする。言葉にすればたったこんな短い一文なのに、叶える方法がいつまでも分からない…。

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