底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

大切にするとはどういうことか

大切にするとは

何かを大切に思うことはとても簡単だ。それはただ思うだけでいいのだから。だが「では実際にそれを大切にしてみてください」と言われると、途端に果てしなく難しい。何をするべきなのかを一体どんな基準で決めたらいいのか、さっぱり分からないからだ。例えば一冊の本を大切にするにしても、表紙が日焼けしないようにページが折れないように丁寧に保管しておくのが大切にすることなのか、或いは何度も何度も熟読し日頃から書かれている内容を反芻することが大切にすることなのか、或いは自分よりもきっとこの本を必要としている人がいるからとそれを手放してしまうことが大切にすることなのか、或いは...。挙げればキリがない。

 

 

人間にとっては困難

どれが本当に大切にしていることになるのか、と問うのはたぶんあまり意味がない。人によって違うだろうと容易に想像がつくからだ。「これが本当に大切にするということだ!」と決まったところで、個人がそれを「本当」と実感できないのなら、結局は本当ではない。大切にすることは決して人の心から離れてはいけないのである。それなら大切に思って為された行いは全て大切にしているということだ、でいいのでは?人の心を覗ける能力とフラットな視点を持てる神にとってみれば、これは真かもしれない。だが人間にはそうではない。買った本を読まずに焼却してしまうのが自分にとっての本を大切にすることだと言われても、それに疑念を抱かないのは困難を極めるだろう。

 

 

人を大切にしたい場合は

本の場合は個人とその人の所有物の間のことであるから、どういった方法で大切にするにしても、完全にその人の自由である。問題になるのは大切にしたいのが誰か人である場合だ。自分の信念に従って心を込めればいい、なんてのはもちろんもう通用しない。相手にとっての大切にされるとはどういうことなのかを知らなければならないからだ。そしてそれだけではまだ足りない。その人にとっての「大切にされる」が本当にその人自身を大切にしているのか、さえ考える必要が出てくるのである。何かの依存症に陥っている人は当然その何かを欲しがるけれども、それをそのままに与え続けるのが大切にしていることだというのは難しいであろう。

 

 

難し過ぎるが故にありのままに戻ってくる

誰かを大切にしたい、そんな純粋な思いも体現するのは至難の業である。「本当の大切の仕方」などというものはこの世にはないからだ。対象が自分の所有物なら自分のしたいままにすればいいが、人である場合にはそうはいかない。そこには相手に対する深い理解と、果てしない思考と知識が要求されるのである。もしそれが無理なら、大切と思うだけに留めておいてありのままに接するのが無難かなぁと個人的には思う。

 

 

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shikouzakki.hatenablog.com

こういうことですね

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