底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

言葉の底のない繊細さを知る

Q:この五つは何が違いますか?

「Aに問題がある」
「Aに原因がある」
「Aに責任がある」
「Aが悪い」
「Aがおかしい」




言葉は使う人を正確に映し出す

言葉とはとても柔軟なものだ。繊細に使おうと思うならいくらでもそれを極められるし、反対におおざっぱに使おうと思えばどこまでも雑に扱っていける。言葉は使う人の性格や品位を映し出すのだと思う。もちろん受け取る方についても同じことが言える。誰かに伝える目的で言葉を使う場合、使う方にとって大事であるのは、できるだけ他の解釈の可能性を潰しておくことである。反対に相手の真意をきちんと汲み取りたいなら、大事であるのは、できるだけ色々な解釈の可能性を想定しておくことだ。どちらも言葉をよく知り、その意味をきちんと考えなければできない所業である。




一面に過ぎない

さて、冒頭の五つは何が違うのだろう。おおざっぱにとれば全て同じと読むことができる。要するにAのせいだと言っているのである。Aと並列的にBやCがあった時、とにかくそれらではなく、Aが諸悪の根源であり、事の発端だと訴えていると捉えることができる。これは一面では正しい。大まかな括りとしては合っているからだ。しかしそれは一面では、に過ぎない。細かく見ればやはり意味はめいめいに違っているのである。




正確に厳密に使っている場合に限った話

Aに問題があるは、物事を解決するにはAに対処する必要がある。Aに原因があるは、Aがあったからその物事が起きた。Aに責任があるは、物事の後始末はAがするべきだ。Aが悪いは、Aが不適切だった。Aがおかしいは、Aが普通の様子でなく変である。言葉を正確に厳密に使うなら、全てただそれのみを言っているのである。他の意味をもし感じるのなら、それは読む方が勝手に読み込んだのだと言わざるを得ない。




このブログの言葉は全ておおざっぱなので信用してはいけない

言葉をすごーくおおざっぱに見るなら、そのほとんどを二つの意味だけに仕分けることができる。それは「いい感じ」と「いやな感じ」だ。美しい面白い楽しい好き嬉しい美味しいすごい正しい尊敬希望信頼満足幸福愛...などがいい感じで、醜いつまらない嫌い悲しいまずい落胆しょぼい不正嫉妬絶望裏切り不満不幸憎悪...などがいやな感じである。個人が自らの思いに委ねて発言をする時、ほぼ全てが最終的にはこの二つのどちらかに行き着くと言っていい。だが、実はその二つの感じを合わせて、感じそのものと対立する形での更なる言葉の使い方が存在しているのである。それは「事実叙述」だ。そこにはいいもいやもなく、如何なる価値判断も含まれてはいない。ただあるがままをあるがままに正確に表現しようとする時、言葉は無限に増殖し、その意味は数多に分岐せざるを得ないのだ。その細かさの全ては「存在」という難解極まりないものに挑んだ、先人たちの努力の結晶なのである。