底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

感謝は人の燃料

※今回の章のタイトルは本文と全く関係ありません

最近章のタイトルのつけ方に迷走しています

完全に相手のためを思い善意でしたことであったとしても、そこに胡座をかいて、さもそうするのが当然であったかのように扱われると人は嫌気がさしてくるものである。それは思ったような見返りがなかったからではない。人の善意の総量がそもそも決まっているためである。その量の維持に他人の感謝がとても効果的なのだ。いわば燃料みたいなものである。補充されないまま走っていれば、いつかは必ずガス欠になってしまう。

 

 

どうしたらいいですかね

善意は人間が持てるものの中で最も純粋な愛の形だろうと思う。相手のために何かしたい。そう思えるのは偏に奇跡である。だが、だからこそ逆に言えば、それは長く続くものでは有り得ない。奇跡が奇跡たる所以である。長く続かせるためには人の手による工夫が必要なのだ。しかし、自分でそれをするのには限界がある。なぜなら、善意とは他人に向けて発動するものであり、その間は自分は相手のために走る車でしかないからだ。燃料は乗っている相手によって、補充されなければならないのである。

 

 

もういっそ撤廃も考えていたりします

要するに人の善意に気づいたら感謝したいよねという話。その感謝は善意を向けられた自分にしかできないのだし、相手の燃料にもなるのだから、して得することはあっても損することは万に一つもない。相手の善意が結果的に自分の迷惑となった場合にも、冷静に落ち着いて、相手の意図と結果を切り離して考えたいものである。受け取る余裕や器量が自分になかっただけかもしれないとの自己反省も、できる限りで行っていきたいと思う。

 

 

でももうこのスタイルで一年以上やってきたわけだし今更変えるの?とも思う

感じることは反復性に弱いと以前書いた。相手の善意も例外ではない。善意に慣れてくると、だんだんとそれが当たり前となり、普通になっていってしまう。だから人は意識的になる必要がある、でなければ気付かぬうちにいとも容易くその善意を失ってしまうことになる。当たり前と捉えないことで、初めてそれは当たり前になってくれる可能性を持つのである。元々全く当たり前のものではないのだから、これは当たり前なことですよね。

 

 

しばらく迷走すると思うのでどうかお付き合いください…

人は神ではない。善意の提供までは無償でできるのだとしても、それをするために体力と気力は消耗されている。だからその分の回復が必要なのである。人からの「ありがとう」というたった一言で、それは成し得るのだ。大変素晴らしい!言われて嬉しい、言う方も得しかない。こんな魔法みたいなワード他にないんじゃないかしら。というわけで、いつもお読みくださっている皆様本当にありがとうございます。(いつも書くことに付き合ってくれる自分もありがとう)。

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