底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

仕方ないことは個人の責任ではない

どうしようもないものはどうしようもない

この世には、自分がそれをすることでよくない結果を引き起こすと知りながら、それでもやらなければならない時がある。自分がそれをやるのでなければもっと悪い結果になるだろうと予見させる時である。これはいわば仕方のない選択だ。あえて何かを悪いというのなら、それはそもそも選択肢が限られていたのが悪い。限られた選択肢の中で最善を尽くしたのなら、選択した本人が責められる謂れはない。他にどうしようもなかったのだから、責めてもやはりどうしようもないのである。




社会の課題

個人を追い詰めないこと、個人に選択の幅を与えること、これは社会が取り組むべき課題である。社会がよりよい選択肢を与え、個人はその与えられた選択肢の中からできるだけ自分も社会も不幸にしない形の最善を選ぶ。それが社会と個人の理想的な関係であるはずだ。個人が与えられた選択肢の中で最善をつくしたのに、それでも誰かが不幸になる悪い結果になってしまったのなら、偏にそれはよりよい選択肢を与えられなかった社会の責任なのである。そして、社会とはもちろん我々生きている一人ひとりの人間の集まりに他ならない。




もしそうするのならね

現実は優しくないし甘くもない。仕方なくそうせざるを得ないということは実にたくさんあるし、人によってその形も異なる。自分から見れば端的に「それはよくないだろ」とツっこみたくなるようなことでも、当事者にとっては単に他に仕方がないから、そうしているだけかもしれない。もし責め立てるのなら、せめてそれは仕方ないことではなかったのだと、つまりは個人が与えられた選択肢の中から最善を尽くすのを怠ったからこそ悪い結果が起きたのだと判明してからにすべきである。そうでないのなら、それはこの社会の一員である自分にも責任の一端があることなのだから。




自分のことを考えてこそ

個人には二つの顔があるのだ。他でもない自分自身であるという顔と、社会に参加する一人の人間であるという顔だ。完全に全て自給自足な生活をしているのでないのなら、どんな人も必ずこの二つの顔を持っている。社会は自分の与り知らぬところで偉い誰かが創り上げているのではない、自分自身も立派にその一員なのである。関与している仕事によるが、それでも最低でも誰しも社会に参加している人間一人分の責任は背負っているのだ。仕方のないことなのに、それを個人の責任として押し付けてばかりでは、いつか自分がそうなった時に痛い目を見る。自分のことを考えるからこそ、他人への想像力を持って自分の責務をきちんと全うしたいところである。