底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

因果と不運についての話〜糞を添えて〜

くそくらえ

ある日ただ散歩に行こうと思い立って家を出た。歩道を歩いていると突然「ボトッ」という音がして、それと同時に頭に僅かな感触があった。確認するように手でその箇所に触れてみて分かった。それは鳥の糞であったと…。というのは、この時鳥の糞を被ったその人の思いを考えるための作り話である。例えばここで「歩いていると突然」の後に「後ろから来た別の歩行者に勢いよく抜かれ、その拍子に肩をぶつけられてよろけたその瞬間」という一文をつけたらどうなるだろう。つけるのとつけないのではきっと当人の思いは大きく異なるはずである。その一文をつけなければそれはただの不運で、つければ因果のある話に変わってくるのだから。

 

 

糞はくそと読みます

ただ歩いていて糞を被ることになったなら、せいぜい本人は、くそツイてないなあと思うくらいに違いない。糞はついてるけど。だがもし肩をぶつけられてよろけた先で糞を被ったのなら、きっともうツイてないと思うだけでは済ませられない。糞は相変わらずついてるけど、まさに糞がつかないことも有り得たはずだという思いが強く芽生えるからだ。肩をぶつけられなければ、自分が糞を被ることはなかった。これは確実である。

 

 

そうすべきでないから、そうしないこともできたでしょ!?

しかしそれを言うなら、そもそも自分が散歩に行こうとしなければ、或いは別の道を歩いていたら、或いは最初からぶつけられない程に極端に道の端を歩いていたら、或いは…糞を回避するルートなら他にいくらでもあるのである。なぜ、肩をぶつけられなければ、だけがその中から選ばれるのか。その答えは、相手はそう「すべき」ではなかったと思うからである。相手がそうすべきでないのにそうしたのなら、責任を一心に追求することができる。そうすれば、そこから自分の不運の採算がとれる。他のルートでは決して自分は報われない。

 

 

あなたはどう思います?

もし降ってきていたのが鳥の糞ではなく、大きなコンクリートの塊で、今度は肩をぶつけられてよろけたおかげでその下敷きにならずに済んだとしよう。するとそれは奇跡とか偶然なんかと表現されるだろう。間違っても肩をぶつけてきたその人の功績になることはない。だってその人は「たまたま」ぶつかってきて、その結果として「たまたま」自分が助かっただけである。結果として悪いことが起きたのなら、当人がそう意志したかに関わらず、たまたまでも責任をとるべきだが、いいことの場合は、本人がそう意志して行動した時にのみいいことである、偶然は偶然でしかない。そんな非対称性ってありなんだろうか。なんかおかしくないですかね。

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