底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

馬鹿は死んでも治らない

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昨日の今日でなんですが、少し回復しました。自分に関するいろいろを楽しめる視点が徐々に帰ってまいりました。なんでそうなれたのかはたぶん「どうしようもなくなったらどうしよう 」と考えている自分の馬鹿馬鹿しさに気づいたから。どうしようもなくなったらどうしようって、そんなのどうしようもないに決まってるじゃない、という自分の冷静なツッコミが入ったことで、どんよりと渦巻いていたものが一気に晴れてきました。そん時はそん時思考がやっと帰ってきた。おかえり。ずっと待ってたよ。




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今回の一件ではっきりした。自分は余裕がないと文章を書けなくなり、何の思考もできなくなるのだと。それはつまり、私にとって生きることは、文章を書くこと、思考をすることとは別なのである。生きるのに必死な時、真っ先にそれらが切り捨てられてしまうということは、きっと私の人生の中心はもっと他のところにあるのだろう。それが何なのかについてはまだよく分からないが、とにかく自分がそれを認めたくなくて、書くことと思考することで懸命にそこに蓋をしようとしているのだけは、はっきり伝わってくる。私はどうも自分の人生の中心を挿げ替えたいらしい。まぁ見ての通り、大失敗に終わっているのですけど。




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でも、それでも私は諦めたくない。「本当は」蓋を取って自分に素直になり、今の自分の人生の中心がなんであるのかをしっかり見極めた「方がいい」のだとしても、私はできる限りにおいて、そこに蓋をし続けたいと思う。なぜなら、そういう自分が私は好きだから。振りでもいい。それならば、一生演じきってみせたい。届かなくても、そのことに目を瞑りながら、手を伸ばし続けるような馬鹿でありたい。馬鹿とは現実よりも先に気持ちが突っ走ってしまう人のことだ。結果は知っていても、己の試したい衝動を抑えられず、ついつい吸い寄せられるようにそれをしてしまう人のことだ。最高ではないか。現実なんてクソくらえと言わんばかりの態度。実に正しい。




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現実を見ないことこそが最も現実を見つめる行為なのだという逆説である。現実に即していない馬鹿な衝動を持った時にこそ、人は現実を見つめていることになる。なぜなら、人生とは究極において、自己満足以外の何ものでもない。現実的にどうであろうが、そんなことは実はどうでもいいのである。結果的な成功か失敗かなどはただの些事だ。自分のやりたいをやったかどうか。人生はシンプルにそれに尽きる。現実に左右されているようじゃまだまだ甘いのである。