日記とやけくそ
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とりあえず最近は仕事が終わるまでの辛抱だと考えている。相変わらず何も書く気が起きない。身体が根本から疲れていて、睡眠時間も圧倒的に足りていない。体の限界を迎えるのが先か、仕事が終わるのが先か、もうそういう勝負である。あと少し、大丈夫、すぐ終わる。終わりまでのカウントダウンを数えながら、そんなことを心で唱えて日々を過ごしている。今はもう7日の朝だ。6日の記事として書いているが、もう7日の朝5時半である。全くやる気になれずベッドに横になって数時間、すこぶる眠くなってきたので今急いで書き上げようとしているところだ。
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部屋も散らかったまま、もう何日も片付けていない。土日だというのに、なんにもしないでベッドに座ったり横になったりを繰り返して、もうこんな時間になってしまった。全ては労働のせいだということにしたい。労働のせいで身体に元気がない。やっぱり私に週5で働くのは無理だったんだとつくづく思い知る。最初は頑張れても、地味なダメージと毎日の生活習慣のズレが積み重なり、全てがだんだんおかしくなっていく。今まさにそのツケが大きく回ってきたところだと思う。ここが耐え時の正念場だ。仕事が終わるまでとにかく耐えろ、私。
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つい先日出した3周年の記事、出来心でついついサボってしまいました。徐々にブログにアイデンティティを見いだせなくなりつつあります。生活の重荷となっていて、日々足枷をはめられているような気分である。自分で自分に課したことであるが、もう完全に生活の足を引っ張っている。ただでさえ仕事で疲れているのに、ブログも書かにゃならん。溜まりに溜まった仕事の疲れ、すぐに筆をとれる訳もなく、やはり寝る前ギリギリになってでしか動けない。そうすると今度は眠気に襲われて、ますます書くのが困難になる。
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今も本当眠い目を擦りながら書いている。10秒でもちゃんと横になったら、きっとすぐにでもいびきをかいてぐっすり夢の中である。いっそもう寝るか。いやしかしあと少しで終わるからさすがに書き上げたい。あぁ本当に疲れた。こんな中身のない記事を書いてなんの意味がある。早く寝たいんだよ。こっちはもう。眠過ぎて自分が何書いているのかさえ分からないよ。かろうじて文字数のカウントが見えるので、必死に今そこまで繋ごうとしているだけだ。なんだかんだもう終われそう。明日こそはまともな時間に記事を書けると願って、今日はもうこの辺で切り上げます。眠。
一旦写真なしで。明日また入れます。
現実をしかと見つめる
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人生の全ては現実をしかと見つめたところから始まるのに、そのたった一つのことの難易度があまりに高すぎる。まずは哲学的に難しいという問題。一言で言えば、現実とはなんぞや、だ。全く分からない。なぜ現実なんてものが存在するのか、これはもう解明しようのない謎であることは自明だが、どのように現実は存在するのか、についても、依然その多くが謎のままである。認識と実存、自分と他者、論理と感知、哲学において様々な対比が為され、議論や思考実験が繰り返されてきたが、まだまだその解明は道半ばである。二つ目は現実に起こる受け入れ難い出来事についての問題。受け入れ難いから、ついその現実を、自覚せずに曲解したり、見えていないふりをする。三つ目は自分自身のしてきた言動についての問題。したことはした、していないことはしていない、たったそれだけのシンプルな話なのに、過去の自分の言動に不都合が出てくると、人は得てしてそれを素直に認められない。責任を負いたくないから。現実を見つめることからも逃避をしてしまう。
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現実を見つめるにはまず覚悟が必要だ。責任を負う覚悟、これがなくてはいけない。自分自身のしたことに対して責任を負う、本来当たり前の話である。それが時として当たり前でなくなるのは、やはり逃げようと思えば逃げられてしまうところにある。不都合は誰だって目を背けたいですからね。格好は悪いが隠蔽できるならそれに越したことはない。次に必要なのは理性だ。何が本当の現実で何が本当でないのか、どうしてそれが本当だと言えて、きちんと根拠はあるのか。冷静に一つ一つ検証をする。現実よりも気持ちが先行してしまわないように、落ち着いて整理をしていく。三つ目に必要なのは知識と思考である。現実について、いつまでも勉強しなければならないという姿勢を持ち、貪欲に全てを吸収しきちんと考えていく。この三拍子揃ってやっと自分の人生を始められる。
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現実をしかと見つめず送っている人生はただの現象である。地に足がついていなければ、ただふわふわと漂ってのらりくらりしているそこら辺の雲と変わりない。色々な要因で、雨を降らされたり、隣の雲とくっつけられたり、遠く飛ばされたりもする。自分の意志ではなく、延々と周りの環境によって変化させられているだけなのである。自分の意志で立ち上がりたくば、まずその意志を支えるための大地がなくちゃならない。まさに、現実をしかと見つめるということである。足の踏み場が用意できてからやっと、どの方向に進んでいくのか、それを決められるようになるのだから。

真剣に取り組みたい
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何か一つを真剣に取り組んだ人にしか分からないことがある。それは自分自身の無力さだ。真剣にやればやるほど自分のできることの小ささに気づく。我々は皆凡人だ。天にたなびく煌びやかな才能を持つ彼らとはわけが違う。自分のやろうとしていることの多くが、既に他の誰かがとっくの昔にやってきたことだ。その現実を冷静に見られる大人はだからこそ、一つのことにはのめり込まない。仕事や家族、友人や趣味と、それぞれに自分の人生を分散をさせて、普通の暮らしを楽しむ。極めて真っ当な生き方だ。その生き方ができる人は、皆それで幸せになれば良い。
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問題はそうではない人だ。それだけでは満足できない、やはり何か一つ真剣に命をかけて生きたいようなことがある人にとって、そんな生活は誤魔化しでしかない。自分の無力さを言い訳にして、諦めたふりをしているだけである。自分の無力さと向き合うのは怖い。寿命まで全うできる一生があったとしても、一体どこまでできるのか、そのスケールの小ささがもうだいたい分かる。そんな分かりきったゴールに向かって真剣にやるには、もはや狂人となるか或いは、常人のままで、必死に一歩ずつに意味を見出していくしかない。
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真剣に取り組む。それはやはりとても根気のいることだ。真剣というのは態度の話であるが、態度だけ真剣であれば良いなんてことはもちろんない。結果が伴わないのなら、そんなのは真剣にやったうちに入らない。どうすれば一歩でも前に進めるのかを考えて実行し、結果としてきちんと表れてやっとそれは真剣だったということになる。真剣にやればやるほど自分の無力さに気づく。しかしその一方で自分にしかできないことも僅かながら見えてくる。それを逃さずに極める。凡人が一つのことに真剣になろうとするのなら、そこに賭けるしかないのだと思う。
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無力さに気づいてからがスタートだ。無力であると知りながら、それでも自分の中に残る炎をどうにかして形にしたい。どうしてもそこだけは諦められない。だから代わりに他の全てを諦める。無様でもいいし、失敗を繰り返したっていい。前に進む速度が遅くとも、ただ真剣にやらねばならない。真剣な大人は本当に色気がある。色々なことを懸命に諦めて、どうにかこうにか自分と折り合いをつけてきたその歴史を感じられるからだ。アラサーにもなって、やっとこの頃自分の理想の大人像を考えた。あまりに遅い気もするが、これから少しずつでも近づけるように、より一層真剣に生きていきたい。

明日だったわ
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しまった。間違えた。今日はこのブログの初投稿から3周年!という記事を書こうと意気揚々としていたのに、よくよく見たら明日やないかーい。ポンコツすぎるだろ。さぁて3周年の記事を書くにあたって、最初の記事のタイトルと内容をもう一度見とくかとスクロールして辿ってみたら、タイトルよりも先に「2021/07/03」の日付が目に飛び込んできて、おいバカとひとりでツッコんでしまった。完全にやる気をなくした。いつもは事前に書くことを決めないこのブログでも、今日だけはそれしか書くつもりがなかったから。もうため息しか出ないわ。はぁ。
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日付とかそういうのを覚えるの本当に苦手なんですよね。人として恥ずかしいことなので小声で喋りたいところですが、人の誕生日とか締切とか、もう本当すぐ忘れてしまう。日付で生きている感覚が根本から薄い人間なのだと思う。今日は今日でしかなくて、明日は明日でしかない。今日が何日とか、そんなのはクソほどどうでも良くて、ただ今日をどう生き延びるか、常にそれしか考えていない。この時期になると「もう今年半分終わったね」なんて言葉よく耳にするけれど、それを聞いて、やっとあぁそっかとなるレベルで、今が何日どころか何月であることさえも、時々忘れてしまう。
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日付で生きている感覚が薄いのに加えて、情報を覚えるのもすごーく苦手だから、そのダブルが重なって、ますます覚えられない。だって日付の情報なんて大抵は年に1回しか必要ないってことじゃないですか。それをこんな頭の悪いただでさえ雑念でいっぱいの頭に入れるスペースなんて到底ないのである。頑張っても「だいたいこの辺」くらいの精度しかない。それを1日外してしまったのが今日。ここまできたらむしろ、1日しか外さなかった自分を褒めるべきなのかもしれない。
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「2021/07/03」を見て驚きのあまり、タイトルと内容を確認しそびれてしまった。もう一回スクロールするのはめんどくさいので今日はやらないことにします。うろ覚えだが確かタイトルは「人生の不足を補うために知的になるのが良い」とかそんなんだった気がする。全く最初の記事感がなくてウケるな。普通そこは「ブログ始めました」とかやろ。まぁ最初の記事も、もちろん今と同じくネタなんて何もない状態で書いていただろうから、きっとその時の自分の頭に浮かんだのがそれだったのでしょう。しかしこの3年で私は人生の不足を少しでも補えたのだろうか。僅かにでも知的になれたのだろうか。全く実感はないことが悲しいですね。

