底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

多数派と少数派について

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大抵の物事には多数派と少数派がある。けれども、それは細かいところを詰めていないがために、そう分かれているように見えるだけである。例えばある物事に対して、一口に賛成と言っても、その理由は様々であるし、条件付きの人がいたり、賛成度合いもきっと本当は全然バラバラである。ただ反対する人と比べた時に、大きな括りとして賛成のグループに入れられているだけである。多数派も少数派もこれは同じだ。党派というのはそういう細かいことは抜きにして、同じところだけを抽出する集まりである。

 

 

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社会というのは多数派に利便があるようにできている。これは仕方のないことだ。秩序を保つためには何かしらの基準が必要であり、その基準は「多くの人々」に合わせざるを得ない。少数派はその多数派への利便の分やはり生きづらさを抱えてしまう。多数派はその利便には得てして鈍感である。そうであることが当たり前だと思っているからだ。少数派はその利便には得てして敏感である。まさにそうであることが自分を苦しめているからだ。多数派になれば楽になれる。そういうことが世の中にはたくさんある。そのために少数派はいつも目の前のことに対し、「その楽さを避けてまで縋る価値のあることなのか?」という問を突きつけられる。逆に多数派はいつも「楽だから乗っかっているだけで、本当は自分は違う意見なのではないか?」との自問を強いられる。

 

 

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多数であることも少数であることも本来は結果的であるべきだろう。何かを選んだ結果「たまたま」多数であったり少数であったりするだけで、多数でありたいから、少数でありたいから何かを選ぶのでは、話が倒錯している。だが、現実には純粋に結果的であるのは酷く難しいことである。人は予測できる生き物だから、それを選んだ自分がどうなるのかと想像せずにはいられない。それを選ぶこととそれを選んだ自分がどうなるのかという二つを常に天秤にかけ、両方のメリットとデメリットを吟味することになる。

 

 

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そうしてだいたいの人は「多数派でいるために元の選択を手放した人」と「少数派になってもかまわないと元の選択に縋りついた人」に二分される。だが、どちらも完全に心の底から納得して選んだのではないから、正当化を重ねる道に走ってしまう。元の選択が全て多数派にピッタリ重なっている人、いくら少数派でも元の選択をそもそも手放すことができない人、というのもこの世には存在する。しかしそういう人たちは少数派であろう。多数派はみなどこかで妥協をして生きている。

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人生は一度きりだから?

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人生を何か大切なもののように語る時、「人生は一度きり」という文言がよく使われているのを見る。人生は一度きりだからやりたいことをやろうとか、人生は一度きりだから後悔のないように生きようとか、そんなフレーズが多く飛び込んでくる。けれども、そもそも一度きりではない人生とはなんだ?と思うことはないだろうか。例えば死んだ後で、今の記憶を持ったままもう一度赤ちゃんからやり直せるとか、時代を超えて赤の他人として改めて人生を歩めるとか、そんなのが一度きりではない人生ということなのだろうか。しかし、よくよく考えれば、それはただ今の常識の意味と違うだけの結局は一度きりということではないか。人生は仮にやり直すことができても、「二度生きる」ことは絶対に叶わないだろう。なぜなら、死とは絶対的な生の終わりであるからだ。

 

 

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死のその後で、もしまた生があったとするなら、それは最初から死んでいなかっただけである。死んでいないのなら生はただ続いている。それがどんな形であれ、生と生の間に死があることは定義により有り得ない。生き返るなどという言葉があるが、あれも返ったのではない、ただずっと生きていたのである。人は死のイメージを身体に依存させ過ぎている。これは現実的に当たり前なことであるから仕方ないけれど、真実でないのは明らかだ。自分の死と自分の身体の死は本質的には関係がないからこそ、赤ちゃんに戻ってやり直すなどの想像が可能なのである。

 

 

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人生は定義により一度きりだ。だから人生は一度きりだと語ることは、一度きりのものは一度きりだというトートロジーに過ぎない。人生は一度きりだから大切なのではない。それはただ自分の、大切にしたいという思いからである。我々が人生を時として大切に思うのは、偏にその神秘性によるものだろう。生も死もただ与えられるしかないこと、人生や世界というものがやはりなんなのかさっぱり分からないこと、そういう驚きによって、人生が果てしなく希少で貴重に思える。

 

 

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やりたいことをやろう。後悔のないように生きよう。それは仮に人生が何度あっても同じく言えることではないだろうか。一度きりだからどうこうではなく、人生があるというそれだけに基づいて、生きる。いつか死ぬからではなく、一度きりだからでもなく、数十年という短さからでもなく。たとえ終わりがなくとも、どんな形の生でも、その中である生き方を決断する。そういうところに人の意志の美しさと尊さがある。

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自分にとっての書くことの変化

書くことは

以前の私にとって書くということは自分を書き記すことだった。それはつまり書くことを自分の外側に配置し、自分をこそ書くことの中に入れるという作業であった。だからこそ、それは毎日為されなくてはならなかった。書かなければ自分がそこで終わってしまう。終わらせないためには書くしかなかった。けれどこの頃はそれが大きく変わった。書くことは自分の一部になった。自分を書き記すためにではなく、ただ書くということをしている。それは洗濯や料理をするのと、何ら変わらない日常の行為の一つに成り果てた。

 

 

書くことは

以前の私にとって書くということは日常からの逃避だった。日常の自分から目を背けるためにここに肯定できる自分をつくりあげようとした。それが成功するはずもないことは、しかし当時の自分もよく分かっていた。だからやはり毎日為されなくてはならなかった。それだけが自分が諦めずに進んだ証になったからだ。けれどこの頃はそれが大きく変わった。書くことは自分の一部になった。自分を肯定するためにではなく、ただ書くということをしている。それは食べたり寝たりをするのと、何ら変わらない生活のサイクルの一つに成り果てた。

 

 

理由は理由にはなりえない

私は私を完全に諦めた。全てを自然なままに委ねることにしたのである。自分の内から瞬間瞬間に湧き出る欲望にのみ従い人生を生きる。書くこともその欲望と重なった時にだけここに来ている。何かの目的を成し遂げるために書くのでも、何かの苦難から逃れるために書くのでもない。ただ書きたいので書く、それだけである。なぜ書くのかと問うのもやめにした。食べることにも寝ることにも理由なんかありはしないのと同じだ。人は生きるために食べたり寝ているのではない。ただ食べたいから食べるのであり、寝たいから寝るのである。どんなことをある行為の理由に持ってきても、その理由と行為が絶対的に結びつくことはない。全てはあてがわれるだけである。

 

 

生は全ての外側

生きていることはどこまでも状態だ。それは己の欲望の内にはない。人は生の上で、生を土台にしてあれこれ欲望できるだけである。何かのために生きることは決してできない。生は全ての外側だ。生の中で書くことはできても、生自体を書き記すことはできない。なぜなら生自体を書き記すことも、生の中でしか行われ得ないからだ。私は長い長い道を辿ってようやく、そこに帰着したのだと思う。これはもしや後悔のない死にまた一歩近づいたのではなかろうか、と今はそんなことを考えている。

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この世で最も兼用であり専用であるもの

言葉は兼用

前回に関連した話。この世で最も兼用であり、最も専用であるものは言葉だろう。言葉ほど多くの物事に用いられるものはなく、言葉ほど一つの物事を正確に表せられるものもない。だが言葉は必ず兼用だ。たった一つのものを表す専用であることは決してない。あるものに言葉をあてがい、名前をつけるためにはまず、それが一つのものであると我々が認識できなければならず、そして、一つのものであると我々が認識できるためには、必ず時制的同一性を要求する。1秒前のあるものと今のあるものを同じものと見なす我々の認識が、言葉を可能にしているので、今この瞬間だけの「それ」を表すことのできる言葉は存在しないのである。

 

 

言葉は専用

だがその認識の上では、言葉は専用である。ある言葉が他の意味を成すことは決してない。雲と言えば「あれ」であり、空と言えば「アレ」である。その専用性は驚くべきもので、雲は雲以外を表すことは絶対にできないし、空もまた同様である。専用で「ありすぎて」もはや、「なんの」専用であるのかを我々は理解することができない。なぜあんなにも多種多様な雲を雲と呼べるのに、雲以外を雲と呼べないのか、雲と雲以外を分かつものはなんなのか、何があれば雲と呼べるのか、何がなければ雲と呼べないのか、考えれば考えるほど謎なのである。

 

 

哲学者と言葉

言葉は無限に多様化細分化可能だが、我々の認識の原則を破ることはできない。言葉は永遠にこの苦しみの運動の中にある。どれほど言葉を尽くしても尽くしても、絶対に言い表せない「そのもの」がある。哲学者と呼ばれるような人達はある意味でずっとこの言葉による転覆を成そうとしている。言葉の限りをつくして、いかに「それ」が言葉にできないのかを語ることによって、逆に言葉に載せようと試みているのである。しかし、もちろんそれが成功することはない。だが、だからといって意味がないとは言えない。なぜなら、徐々に近づくことはできるからだ。永遠に到達はできないとしても、少しでも迫れたのなら、それは果てしない偉業である。

 

 

もしかして:キモイ

私が語り出すものは私以外から語り出されることはない。その意味でこれは私専用の言葉だ。だが、それを読み意味を理解しようとする人がいれば、その瞬間、書かれた全ては私とあなたの兼用となる。私は私の言葉が隅々まで兼用となることを望む。なぜなら、そのことによってこそ、ここにある言葉は私の私だけの専用の言葉になり、あなたのあなただけの専用の言葉になるからだ。

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兼用と専用について

兼用と専用

兼用というのはとても便利なことだ。一つのもので二つ以上の物事に役立てるなんて、本当に素晴らしいという他ない。けれど、これは貧しさの象徴であったりもする。専用のものが持てないからこそ兼用でしのごうとするのだと、そう見ることもできるわけである。逆に一つ一つのものに専用のものを必要とするなんてそれは考えの貧しさだ、と捉えることもできる。考えが貧しいから、兼用で対応可能な物事に対しても、いちいち専用を割り振らないと切り盛りできない。極論で考えればこれは「全ての物事に兼用できるたった一つのものがある方がよい」か、「全ての物事にそれぞれ専用のものが備わっている方がよいのか」という問題である。

 

 

現実の問題

現実的には、兼用が過ぎるとおよそどんな物事にももはや対応できなくなるという問題と、物事はいくらでも細分化可能なので精密な意味で何か一つに専用をあてがうことはできないという問題があると思う。兼用には常にある程度の専用性が必要であり、専用には常にある程度の兼用性が必要である。だから現実的にはどちらに極めてもやはり良くない。ほどほどのバランスが保たれているのがベストだ、が答えであろう。

 

 

もっと考えると

しかしもっと突き詰めて考える人なら、こんな答えでは満足しないでしょう。「仮にそれができるとして」がこの問題の前提である。現実的にそれができるかどうかなんて最初からどうでもいいのだ。仮に全てを完璧に兼ねることができるたった一つのものがあり、仮に全ての物事に専用を割り振るこどができるのだとしたら、どちらの方がよいのでしょうか。いや、もしそれが可能だとすると、もはや上二つの文言は同じ情景をただ別の言葉で言い換えているだけになるのではないか。だって、全てに完璧に兼用できるものがあるとしたらそれは一つ一つに専用があるということに他ならないのだし、全ての物事に一つ一つ専用があるというのは、そもそも全てを兼ねる何かがないと考えることさえできない。

 

 

根源的とより良い

その意味で兼用は専用よりも根源的である。タイムウォッチは時間をはかる専用のものだが、秒も分も測れるという兼用を叶えているからこそ、その専用性が保たれる。論理の上でも、永遠に細分化できる物事に対してはどこかで「一つ」として括らなければならないが、括った時点で必ず兼用性が潜り込む。どんな場合でも、その上でその「一つ」に対して専用のものがあるだけに過ぎない。だがだからこそ、専用の方が良いと言える。論理上の極限まで物事を細分化しそれに完璧に対応できる専用のものが都度ある方が良いのは自明であろう。「全てに兼用できる一つのものがある」「全ての物事に専用が割り振られている」同じ情景の描写であれど、それを目指す時に、前者の捉え方をするか後者の捉え方をするかでは、やはり歩む道は全く異なる。

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