底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

現実をしかと見つめる

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人生の全ては現実をしかと見つめたところから始まるのに、そのたった一つのことの難易度があまりに高すぎる。まずは哲学的に難しいという問題。一言で言えば、現実とはなんぞや、だ。全く分からない。なぜ現実なんてものが存在するのか、これはもう解明しようのない謎であることは自明だが、どのように現実は存在するのか、についても、依然その多くが謎のままである。認識と実存、自分と他者、論理と感知、哲学において様々な対比が為され、議論や思考実験が繰り返されてきたが、まだまだその解明は道半ばである。二つ目は現実に起こる受け入れ難い出来事についての問題。受け入れ難いから、ついその現実を、自覚せずに曲解したり、見えていないふりをする。三つ目は自分自身のしてきた言動についての問題。したことはした、していないことはしていない、たったそれだけのシンプルな話なのに、過去の自分の言動に不都合が出てくると、人は得てしてそれを素直に認められない。責任を負いたくないから。現実を見つめることからも逃避をしてしまう。

 

 

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現実を見つめるにはまず覚悟が必要だ。責任を負う覚悟、これがなくてはいけない。自分自身のしたことに対して責任を負う、本来当たり前の話である。それが時として当たり前でなくなるのは、やはり逃げようと思えば逃げられてしまうところにある。不都合は誰だって目を背けたいですからね。格好は悪いが隠蔽できるならそれに越したことはない。次に必要なのは理性だ。何が本当の現実で何が本当でないのか、どうしてそれが本当だと言えて、きちんと根拠はあるのか。冷静に一つ一つ検証をする。現実よりも気持ちが先行してしまわないように、落ち着いて整理をしていく。三つ目に必要なのは知識と思考である。現実について、いつまでも勉強しなければならないという姿勢を持ち、貪欲に全てを吸収しきちんと考えていく。この三拍子揃ってやっと自分の人生を始められる。

 

 

3

現実をしかと見つめず送っている人生はただの現象である。地に足がついていなければ、ただふわふわと漂ってのらりくらりしているそこら辺の雲と変わりない。色々な要因で、雨を降らされたり、隣の雲とくっつけられたり、遠く飛ばされたりもする。自分の意志ではなく、延々と周りの環境によって変化させられているだけなのである。自分の意志で立ち上がりたくば、まずその意志を支えるための大地がなくちゃならない。まさに、現実をしかと見つめるということである。足の踏み場が用意できてからやっと、どの方向に進んでいくのか、それを決められるようになるのだから。

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